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- 17Dec
老骨の句遊び
12/16(月)夜、松島温泉ろまん館にて老骨を 労わる冬の 湯治かな 万両の実の 火を点しおり 益軒益軒はカレエダの詐称です。益軒先生ならこんな歌をお作りになりそうな気がしたのです。貝原益軒先生は当時としては大変なご長寿で、84才の天寿を全うされました。(江戸時代を通じて平均寿命は40歳前後です)益軒先生は奥様を伴ってよく湯治に行かれたそうです。カレエダは家内に伴われて月に一度の湯治を楽しんでいます。木枯らしに 骨のきしむや 加齢痛 焼酎飲んで 油ささばや 雲国斎遠藤周作さんは狐狸庵雲国斎(こりゃあーうんこ臭い)を名乗って狐狸庵閑話(こりゃあーいかんわ)という戯れ本を書かれていました。カレエダも愛読していました。遠藤周作さんは享年73、若いころはカリエスに苦しめられ、晩年は腎臓病で苦労されたようですが、まだ加齢痛はなかったようです。もっともっと長生きしてほしい人でした。言うまでもありませんが、上の狂歌の雲国斎はカレエダの遊びです。湯に浸り 骨身にしみる 有り難さ 令和元年 娑婆の極楽 枯枝カレエダは満州からの引揚者です。当時の引揚者は難民の群れでした。国家の保護を失い敵地と化した満州の野に、無防備な難民として放置されました。現在の難民は国際的に一定の保護を受けていますが、引揚者の群れは中国の人々の恨みや怒りの渦巻く中、抵抗もできず暴行虐殺された者が何万人いたのかその数さえわかっていません。餓死する者も多く、体の弱い者は次々に倒れ特に幼い子供たちは飢えと疫病で次々に亡くなり、満州の野に置き去りにされました。このような状況の中で多数の残留孤児が生まれました。当時5歳のカレエダが毎日遊んでいた隣の女の子も、引揚船の中で死にました。甲板に集まった10数人の人々の見守る中、軍服姿のお坊さんがお経をあげ、木の箱に納められ、船尾からロープで降ろされ、海面近くで遺体だけが海に落とされる。ボーと弔いの汽笛が流される。そんな水葬が行われたのをカレエダには無声映画を見るような、感情のない記憶が残っています。今振り返って思えば、残留孤児にもならずよく生きて帰れたものだと思います。そして今の幸せを思わずにはおられません。当時の大人たちには今の豊かで平和な社会は想像できなかったでしょう。令和元年娑婆の極楽。有り難いことです。 湯の宿に ゆるりと体 横たえて 夫(つま)と辿りぬ 過ぎにし日々を 枯葉年寄りには思い出がいっぱいあります。.
- 12Dec
追補:アンドアインさんのこと 3
アンドアインさんからお聞きした話 その3今回会って聞いた話で一番驚いたのは、もうすでに中学生の時に放浪の旅を経験されていることです。テレビで見た、ポンポン船の出入りする宇和島港の景色が忘れられず、自分の目で直に見てみたいという思いが抑えきれなくなった。また、その当時日本の最南端の島であった与論島へも行ってみたいと思った。魚屋でアルバイトをして貯めた3万円足らずのお金を懐に、東京から鹿児島まで乗り換えなしの汽車に乗った。ずっと窓の景色を見ていたので、鹿児島に着いた時には蒸気機関車の煤煙で着ていた物は煤だらけになっていた。顔も煤けていただろう。鹿児島から与論島までは汽船が出ていた。船員さんに乗せてほしいと頼んだら、いろいろ事情を聞かれたが結局、只で乗せてくれた。(戦災孤児と勘違いされたのかもしれない。煤けていたのが役に立ったようです。もうその当時は戦災孤児などはいなかったのですが)与論島を見てまわって、また船で鹿児島に返って、宮崎、大分とヒッチハイクをしながら放浪。野宿をしたが親切な人が家に泊めてくれたこともあった。3度3度粗食で凌いだ。腹を空かせて歩いていると、子供だからひもじさが顔に出る。家に連れていってご飯を食べさせてくれた人もいた。別府から船で宇和島に渡り、憧れのポンポン船の景色を見た。四国を歩いた後、広島の尾道に渡り岡山から汽車に乗って東京に帰った。これが中3の夏休みのこと。この行動力は非凡です。漂泊の旅に憧れる人は少なくないと思いますが、それを実践する人は極めて少ないでしょう。それも中学生で実行するとは。「ご両親は心配されたでしょう」と言ったら、「この子はこんなものと思っていたのでしょう。格別に心配することはなかったようです」とアンドアインさんは応えました。きっとアンドアインさんには山下清的DNAがあるのでしょう。≪人は己のDNAに素直に従っている時に、幸せを感じるように作られている»と、カレエダは思っています。アンドアインさんとカレエダは全く性格が異なっています。カレエダは一つの所にとどまって、一所懸命、その場をより住みやすくすることに幸せを感じるタイプです。伝統的な日本の農民の心情だと思います。アンドアインさんは外に幸せを求めて新しい環境の下で生活を築いていくことに生きがいを感じる人だと思います。日本人には珍しい狩猟民的性格ではないかと思います。性向の異なる二人がこれほど親しみを感じることができるのは、二人とも自分らしく生きていることに共感できるからだと思います。自分の生き方を人に押しつけないところも共通していると思います。ネットをしていなかったら決して出会うことはなかったでしょう。ネットのおかげで素晴らしい人に出会えたことを感謝しています。カレエダは、4年前にアンドアインさんが我が家にお出でになった時のことを記事にしています。カレエダにとっては、もう懐かしい思い出です。
- 06Dec
追補:アンドアインさんのこと 2
アンドアインさんからお聞きした話 その1若いころ世界を放浪したアンドアインさんに「何ヵ国歩きましたか」と聞いたら「120ヵ国は超えていると思うが、数えたことがないのでわからない。チェコスロバキアのように四つに分かれた国もあるし、一つの国だか二つの国だかはっきりしない所もあります。例えばナイジェリアとニジェール。もともと一つの民族が住んでいた所に、イギリスとフランスが勝手に線を引いてそれぞれの植民地にした。もともとは一つの国で、英語読みだとナイジェリア、フランス語読みだとニジェール」とアンドアインさんは答えました。「何ヵ国?」などと聞くのはカレエダのような凡人。放浪の旅をする人にとっては国の数などどうでもいいことなのですね。アンドアインさんからお聞きした話 その2アンドアインさんがアフリカを放浪している途上、ナイロビの安宿にしばらく滞在していたことがある。当時は日本人のバックパッカーがどこにでもいた。その安宿にも何人かのバックパッカーがいて、すぐ気安くなった。その宿には飛び切りきれいな娼婦がいた。そしてその女は男を有頂天にさせる軀であることが評判になっていた。しかしその女を抱いた若者たちは全員が性病に罹った。性病よりも稀有な女に興味を捨て切れないアンドアインさんは、そのソマリアの女と一夜を過ごしたが、性病に罹ることはなかった。「そのことを私は誇りに思っています」とアンドアインさんはおっしゃいました。アンドアインさんが性病に罹らなかったのは、意志が強くて身持ちが良かったからではない。何度買ってもアンドアインさんだけは病気にならなかったのである。売春婦の中にも、無防備でいくら売春しても性病に罹らない者が10%程度いることが知られています。アンドアインさんは性病に罹らない特異なDNAをお持ちのようです。このような特異な遺伝子を持っていることを、幸運と微かな誇りに思っているとおっしゃったのです。アンドアインさんは、東南アジア、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、北米と渡り歩いている途上で、白黒黄色、いろいろな人種と国際交流をしたが、とうとう性病に罹ることはなかったそうです。(その3は次の回に)
- 16Nov
追補: アンドアインさんのこと 1
アンドアインさんの人生を見るに、その出処進退の潔さが際立っている。 アンドアインさんは1951年(昭26)、東京生まれ。 都立工業高校を出て日産自動車に入り、カーレースのクルーメンバーとして整備を担当。 整備技術を身につけたアンドアインさんは、1973年22歳で独立し会社を設立。小なりといえども社長になった。 当時は古トラックを全国から集めて整備し直して、中国や東南アジアへ輸出する会社があった。そういう会社の下請けをした。 一般の月給が4万円位のころ、50万円位は収入があった。家が貧しかったので半分家にいれた。1978年27歳の時、仕事は順調で繁盛していたが世界放浪の旅に出るため会社を売却。 代金は全部両親に渡した。アンドアインさんがいなくなっても両親が生活に困ることのないように配慮したのである。 アン ドアインさんは晒しの褌を締め、3000ドルのトラベラーズチェックを腹巻に縫いつけ、リュックを背負って放浪の旅に出た。 まずタイに入国。そこで3000ドルのトラベラーズチェックを失くしたことにして、再発行してもらった。もちろん元々のトラベラーズチェックは無効になるが、見せ金として使えた。 所持金が少ないと入国させてくれない国もあるからである。 東南アジアから中東、アフリカ、ヨーロッパ、北米へと渡り歩いた。2年間の放浪の末に、ニューヨークで路銀が尽き、乞食同然となった。 着ているものはヨレヨレボロボロ、ホームレスが同情した。 風呂にも入らず異臭を放っていただろう。 そんなアンドアインさんに、老舗和食店の支配人が皿洗いの仕事を与えてくれた。熊本の人吉の人だった。日曜日には家に呼んで、ご馳走を腹いっぱい食べさせてくれた。アンドアインさんはこの人の下で人間としての薫陶を受けた。 アンドアインさんはこの人を終生の恩人と尊崇している。 アンドアインさんはこのレストランで皿洗いから始めて、バスボーイ、ウェイター、キャッシャー、副支配人、支配人と、たった4年で異例のスピード昇進をした。後には3つのレストランを任される副社長格になったが、入社10年で退社。独立してニューヨークでスーパー(食品店)を開いた。時に1991年(平3)、40歳。 この店も繁盛していたが、15年経ったところで売り払った。 東京の母親の看病のため、長期間店を離れねばならなくなったからである。結局3年母親を看病し、母親を説得して施設に預けた。 その間、家族はニューヨークにいた。東京の母親のもとと、ニューヨークの家族のもとを行き来するのに、ちょうど中間に位置するハワイに居を移した。2011年60才。 ハワイでは、旅行者のために部屋を貸す(これを「アンドアイン」と呼ぶのだそうだ)一方で、観光ガイドとして働いた。 アンドアインさんは勉強熱心で話も面白いので、評判のガイドになり、指名も多かったが経営者の経営方針と合わず、2年でやめた。 次は、廃業寸前のレストランを任され、アンドアインさんの裁量で全面改装し、調理の仕方や料理の出し方を一新し、1年も経たぬうちにハワイで評判の店になり、地元紙が取り上げるほどになった。しかし、ここは若い日本人従業員を査証のために騙す経営者の狡猾さが赦せず2年でやめた。この時は従業員が5人もアンドアインさんに同調してやめた。 アンドアインさんは1度決めたらすぐ次の行動に移る人で、常に前向きであり、引き返すことはなかった。 今はハワイ大学ヒロ分校の学生食堂で週に二回だけ和食を提供している。 あと2年経ったら静岡県の伊豆に移り住むことにしている。 そこでまた全く新しい仕事を一から始めるのである。今度の仕事は別荘地の造園業の塵掃除係だと言う。 この人の人生は実に目まぐるしい。 何人分もの人生を生きている人だと思う。 (続きは その2 に)
- 12Nov
秋の霧島温泉へ 2
「旅行人山荘の句遊び」霧島の温泉街から少し離れた山の上にホテル「旅行人山荘」はある。敷地面積は50,000坪(180,000㎡)広い芝庭の南は下り斜面で、その先の森の中に露天風呂「赤松の湯」がある。大樹が空を覆って秋の光をちらちらと落としていた。風呂には囲いはない。簡素な脱衣所があるだけである。森が深いので人目は届かないと思うが鹿や猪は来るかもしれない。今までに経験した露天風呂では、最も自然に近い露天風呂である。芝庭の北側は上り斜面で、自然の山を整備した散策路がある。路の傍らの所どころに、著名な俳人歌人の句歌を記した立て札がある。歩きながらその句歌を拾った。三つ四つ書き留めたところでカレエダは歩き疲れて部屋に戻った。高千穂に 飛ぶ天霧に 燕来る 野見山朱鳥霧島の 霧来てひびく 鵯の声 水原秋櫻子ふかぶかと 森の上なる 蝶の空 河端茅舎夏が来たやら 霧島山にみやまつつじの 花が咲く 野口雨情 これは都都逸ですね。こんなのを見るとカレエダは句遊びをしたくなります。秋が来たやら 露天の風呂に 屋根は紅葉に ふき変わり 垣原枯枝 (ここの露天風呂は、木々の枝葉がまるで屋根のように空を覆っている)著名な俳人歌人の句歌と言えども、大したことはない。カレエダの句遊び仲間は、このくらいのものなら毎日作っている。ふかぶかと 身を沈めたり きりしまの 白き濁り湯 木漏れ日のかげ 北原白秋さすが白秋、この短歌はすばらしい。「ふかぶかと 身を沈めたり」で気持ち良さが伝わって来る。「きりしまの 白き濁り湯 木漏れ日のかげ」は、森の中の露天風呂を言い得て妙である。「かげ」は、葉陰でもあり日の影でもある。さすが白秋というべけんや。注意!!上の北原白秋の短歌は、柿原枯枝の作です。よそでは決して言わないでください。よそで言うと、あなたが恥をかくかもしれません。旅行人山荘は創業102年、「北原白秋も斎藤茂吉も来ています」とフロントマンは言いました。それじゃぁ、斎藤茂吉の短歌も作ろうかと思ったのですがあまり遊び過ぎると、まともに怒る人がいるかもしれません。句遊びもいい加減が大切なようです。旅行人山荘https://ryokojin.com/
- 09Nov
秋の霧島温泉へ 1
【11/9(土)早暁 旅行人山荘にて記す】えびの高原から霧島一帯にかけては若いころから何度も来ている。20回は来ていると思う。70歳を超えてからは一度も来ていない。久しぶりである。見覚えのある景色を眺めていると、記憶の底から思い出が浮かんでくる。春の中岳をピンクに染めるミヤマツツジ、夏のウツギの白い花、秋の林の紅葉、硫黄山に漂う異臭(現在は白い噴煙を空高く吹き上げていて、1km以内立ち入り禁止である)、韓国岳(からくにだけ)には3度登った。高千穂の峰に登ったこともある。帰りの下りで3度も転んだことも思い出される。(この時はもう目がオカシクなっていたのだ。この時から山には登っていない。もう山には登れないが思い出の中では自由に登っている)次々に記憶の中から思い出が浮かんでくる。赤松の林を通って池巡りをしたこと、コスモスの乱れ咲く生駒高原を歩いたこと。そのころは子供たちは幼かった。そういえば新婚旅行の一日もこの一帯で過ごしている。3月の末というのに、「えびの高原ホテル」の周りにはまだ斑に雪が残っていた。玄関先には融けかかった雪ダルマがあった。このホテルも今はもうない。あの日から来春は50年になる。あっと言う間のことだった。そんな気もするし、遠い昔を眺めているような気もする。11/8(金)晴れ。 9:50 カレハの運転で家を出る。松橋ICから高速を走ってえびのICを出て、山道をくねくね曲がって上り坂を走り、赤松の林をぬけて11:50にえびの高原に着く。家から105km、ちょうど2時間。天気に恵まれて気持ちのいいドライブだった。昼食後1時間ほど高原を散策。ここから霧島温泉までは19km、20分ほどである。えびの高原と霧島連山は一帯の自然環境であるが、えびの高原は宮崎県、霧島温泉は鹿児島県である。 降り立てば 湯煙り匂ふ 霧の街 ともに歩みし 日々の霞みて温泉街を少し歩いた。 (続きは その2 に)
- 06Nov
友 遠方より来る! その2
2015年春の思い出(2015・4・29の記事の再録です) 新緑の 息吹きたくまし うきの里 さざめき歩く 今日の幸せ 枯枝個性の強い者を、世の中からランダムに4人選んで酒宴をすれば、喧嘩が始まるかもしれない。喧嘩までにはならなくても気まずい雰囲気になる可能性は高いと思われる。私たち4人はブログというスクリーニングがかかっている。カレエダのブログを読んで共感した人たちであり、カレエダも他のメンバーのブログをおもしろいと感じ、メンバー同士もお互いのブログの愛読者である。つまり4人相互の間に共感のネットワークができている。初めて会ったのに初めてのような気がしなかった。昔からの友達のような親しみがある。4人とも個性が強いが反りが合っている。世の中から少しズレているのかもしれないが同じ方向に同じ程度ズレているようで違和感がなく、しっくり打ち解ける。そんな感じ。 アンドアインさんとカレエダは、ちょっと見ると、生き方が正反対のように見える。カレエダは独り静かに過ごすのが好きで、一点に籠ってそこから世間を見ているような生き方。アンドアインさんは、二十代のころ2年間も世界を放浪してまわり、ニューヨークで路銀が尽きて乞食のようになって、そこから這い上がってきた。そういう人生を送ってきた人。つまり、幸せを外に求めて出て行った人。今ハワイ在住。カレエダは幸せを内に求めて一点に籠った。生き方はまるで違うようだが、自分らしく生きようとした点では同じである。だからお互いの生き方に共感できる。カレエダはアンドアインさんのような生き方はできないが、「いいなあ」と思う。「どんな人だろう」と、大きな興味を覚えていた。希叶子さんも若いころ独りでヨーロッパを旅してまわった人。女だからさすがにグランドホテルやリバーサイドホテルなどには泊まらなかったそうだ。ステーションホテルには泊まろうとしたことがあるが追い出されたそうだ。叶子さんも外に幸せを求めて日本から飛び出て行った人。今はシドニーに住んでいる。やはり「どんな人だろう」と興味を感じていた。叶子さんのような人もめったにいるものではない。ネットだからこそ出会えた人だと思う。思案人さんとは、カレエダはなにか大変似たところがあるように思う。取り上げているテーマが驚くほど似ている。ただ、思案人さんの記事は軽く面白く書かれている。それでいて考えさせられる。材料は同じでも調理の腕が違う。思案人さんのブログを読んだきっかけは思いだせないが、初めて読んだ記事は子供の頃の思い出が書かれたエッセイだった。しみじみとした味わいがあった。この人の言語感覚には非凡なものがあると思いました。カレエダは目がひどく悪くなってこの頃はPCはできるだけ見ないようにしているのですが思案人さんのブログはつい覗いてしまいます。困ったブログです。思案人さんには当然のことながらカレエダは大変興味を感じていました。しかし、現実に会えるとは思っていませんでした。それがひょんなことから話がとんとん拍子に進んであっさり実現してしまいました。こんなにうれしいことはありません。生きていてよかったなあと思いました。来年もカレエダが元気にしていたら、東京で江戸の史跡を訪ねてみたいと思っています。江戸の町は江戸城を中心に二里(8km)圏内に収まっていたそうですから歩いて回っても3泊4日くらいでまわれないことはなさそうです。そのうちの一夜を皆さんとの酒宴と句会に当てようと思っています。続きはその3に。.
- 02Nov
友 遠方より来る! その1
2015年春の思い出(2015・4・28 の記事の再録です) 去年の10月「もっこす」という記事を書いたらハワイのアンドアインさんからコメントが入った。2年間の世界放浪の末にニューヨークで路銀が尽き果て乞食のようになり、仕事を探したが誰も相手にしてくれなかった。そのとき皿洗いの仕事を与えてくれ毎週、週末には家に呼んで御馳走してくれた人がいた。和風レストランの支配人で丸目敏信さんという熊本県人吉の人でその後も上司としてアンドアインさんを可愛がってくれたそうです。その人が今思えばカレエダが書いた「もっこす」そのものだった。その人に対する尊敬の念がますます深くなったとあり、その人の墓参りにいつか人吉に行きたいとあったので、「そのときは是非カレエダの所にもお出でください」とお誘いした。すぐアンドアインさんから反応があった。「来年の春来ます」と。「思案人さんと3人で飲んだらどんなに楽しいだろう」とカレエダがコメントしたら、「私も行きます」と思案人さんが応じた。年が明けてからふたりが日程調整をした。(カレエダは365連休、日程調整の必要はない)4/25(土)~4/27(月)の2泊3日と決まった。まだ1月だった。そのころ、シドニーの希叶子さんからメールが入った。去年の秋、日本に里帰りしていたとき日程の都合がつきそうだったのでカレエダの所に行こうかなとメールをしたがカレエダは旅行中で連絡がつかなかったとあり、カレエダびっくり。そのメールを見ることもなくそのままになっていたのです。5月に里帰りの予定と聞いて「ちょうどいい、日程をやりくりしてぜひ参加してください」とお誘いした。ということで4人が顔を合わせることになった。4/24(金)朝10:20 希さん熊本空港着。黒装束黒メガネ黒のバッグ、颯爽と現れた。まだ若い。カレエダより一世代若い。小柄ながら外人と間違われることもあるそうです。外国生活が長いので歩き方や雰囲気に日本人離れした所があるのだろうと思います。繊細緻密な文章を書く人だから無口で気難しい人かもしれんと思っていたら、とても気さくで自分から積極的に話す活発な人でした。おかげで初めから打ち解けて楽しい会話になりました。4/25(土)午後3時半ごろ、真っ黒に日焼けした笑顔が歩いてきました。声も大きく伸びやかで明るい。体全体から元気が発散しているような人でイメージどおりのアンドアインさんでした。午後6:25 熊本空港、思案人さん到着。当りの柔らかい円満な人とは電話で話しただけで分かっていましたが、洗練された文化人、前評判通り背の高いいい男でした。「私が一番個性がない」とカレハにおっしゃったそうですが、どうしてどうしてこれは際立った個性です。その夜は居酒屋「どんこ舟」で歓迎会。酒は球磨焼酎白岳。一晩で十年来の友となる。北海道からハワイからシドニーからとカレエダの所においでいただき、何度お礼を言っても足りない思いでした。生きていることの喜びを感じました。遠来の 友とひととき どんこ舟 酔うて談笑 娑婆の極楽 枯枝.
- 01Nov
アンドアインさんがやって来た! 4
ここでアンドアインさんのことを紹介しようと思ったのですが、カレエダが不正確なことを口述するよりはアンドアインさん自身のブログをご覧いただくのが一番いいと思い直しました。世界放浪のことなど詳しく書かれています。カレエダは、4年前にアンドアインさんがお出でになった時のことを記事にしています。カレエダにとっては、もう懐かしい思い出です。近いうちにその過去記事を再録したいと思っています。アンドアインさんのブログ(プロフィールをご覧ください)https://ameblo.jp/ohukea
- 25Oct
アンドアインさんがやって来た! 3
画像は「かんぽの宿・阿蘇」窓外の景色10/22(火) 疲れてはいたが、気持ちよく目覚めた。隣室のアンドアインさんは夜明けとともに1時間ほど辺りを散策、風呂も済ませたそうだ。何事もてきぱきと捌けた人で無駄がない。チェックアウト後、熊本駅へ直行。約2時間のドライブ中も話が続いた。(この二日間一緒に過ごし、多くの語らいができました。そのいくつかを「その4」以降にご紹介したいと思っています)熊本駅前で、遠くから来ていただいたことに感謝し「今度は奥さんとご一緒にお出で下さい」と握手してお別れをしました。アンドアインさんは爽やかな余韻を残して帰っていきました。あとがきアンドアインさんは、東京の次男さんの所に滞在しています。次男さんはアメリカの投資会社のディーラーで、東京支社勤務。住居は国会議事堂近くの平川町にある。おりしも即位の祝いの日、厳戒態勢が敷かれています。日焼けしてラフなスタイルのアンドアインさんが無事、滞在先にたどり着けたかどうかカレエダとカレハは心配しています。ブログの更新がないところを見ると、ひょっとすると留置所かも?いやいや、カレエダのためにタイトなスケジュールを三日もやり繰りしたので、忙しくてブログどころではなくなったのでしょう。 謝々多謝 (続きはその4に) .


