「The Silver Tassie 銀杯」@世田谷パブリックシアター | 明日もシアター日和

明日もシアター日和

観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

作 ショーン・オケイシー

演出 森新太郎

出演 中山優馬/矢田悠祐/横田栄司/山本亭/青山勝/浦浜アリサ/安田聖愛/長野里美/

   土屋佑壱/三田和代

 

 アイルランド人作家の作品+森新太郎さん演出ってだけで観ることにしたけど、ここまでストレートな反戦劇だとは知らなかった〜がっかり この手の戯曲は好みではないんですよね……凹 悲喜劇となってたけど「喜」の部分はあまり響いてこなかったな苦笑 皮肉や風刺はありましたが。

 時代は第一次世界大戦中、舞台はダブリン(と戦場フランス)。主人公はフットボールの名選手で志願兵のハリー。地元のヒーローとして賞賛され恋人もいて、輝かしい将来が見えていたはずなのに、戦場で脊髄を損傷して下半身付随となって帰国泣き1

 銀杯(優勝カップ)はフットボールの試合で勝者に与えられる栄光の証です。チームを3度の優勝に導いたハリーにとって銀杯は自らを映し出すシンボル。でも、一生車椅子生活となり恋人にも去られた彼にとって、何も照らさなくなった銀杯は、もはや自分を苦しめる存在でしかありません。彼はその銀杯をボコボコに潰して投げ捨て、表舞台から去っていく号泣 戦争の不条理、無慈悲さ、無意味さ、人間の残酷さ、たくましさなど、普遍的で深いテーが描かれています(だいたい分かるねニコ)。

 

 苦手なジャンルの戯曲だけど、役者は熱演・好演、演出は明快で手堅いです。舞台空間は白い枠で囲まれていて(枠外で演技が展開することもある)、上手から下手にかけて床が斜めに傾いている。故郷でも戦地でも人は心身ともに不安定な状態にあることを感じさせます。演出の森さんは「日常と戦場が地続きであると印象付けたかった」と。枠で囲んだのは「閉じ込められた戦場の塹壕から抜け出たいという状況、それは日常にもある」こと、斜めの舞台は「その日常も実は不安定で危うい場所である」ことを表現しているのだそう。ただ、上階から見下ろしてると、角度の関係で傾斜はほとんど分からなかったですねニコ

 

 戦場シーンは物語の肝だろうけど、私にはとても長くて、作者が言いたいことは「よく分かりすぎた」という感じだったなショック でも、その見せ方が凄かったです。塹壕にいる歩兵、命令を下す上官、負傷者した兵士などは、黒衣姿の役者が操るほぼ等身大の人形によって戯画風に演じられる。頭が大きく顔が奇妙にデフォルメされた人形は、無機質だけど却って想像力を刺激し、グロテスクな戦いが鮮明になります。戦わされる兵士は「戦争」という強大な何かの操り人形に過ぎないとも思い知らされる。舞台に置かれた恐竜のような戦車と逆さに吊るされた磔刑のキリストも象徴的でした。人形によるこのシーンは強烈なインパクトを与えるけど、実は私は、生理的に全く受け付けなかったのですよ青ざめ顔 がーん

 

 兵士役はハリーの中山優馬のほか、バーニーの矢田悠祐(戦場でハリーを危機一髪から救い出した英雄として凱旋しハリーの恋人とくっつくQueenly)、テディの横田栄司の3人。明らかに横田さんのセリフ&演技の次元が違いましたクラッカー右から テディは妻に暴力を振るうDV夫だったけど、戦争で両目の視力を失い、妻なしでは生きていけなくなってしまう叫び 終盤のテディの聖者のようなセリフが胸に残ります号泣 盲目になり表情や動きに制約があるからこそ響く、微かに緩急と抑揚を帯びた静かなセリフの力強さといったら!

 

 戦場から遠い場所にいる普通の人たちは、兵士たちを発揚して戦場に送り、彼らがいない間は淡々と生活し、戦後は希望を胸に新しい時代に踏み出していく。ハリーたち戦争負傷者には形だけ同情しながら、彼らをその場に置き去りにして。そうしないと前に進めないから。ベテラン俳優たちの繊細な演技がその無情さを罪ないものに変えていきますパチパチ

 第一次大戦時アイルランドは「イギリス」だったから彼らはイギリス人として戦ったけど、当時はイギリスからの独立機運も高まっていた時期で、終戦後すぐにイギリスからの独立戦争&内乱が始まります。これを思うと、最後にダンスパーティーで浮かれる普通の人たちも、すぐに闘争という泥沼を体験するんだよねと、切なさを感じてしまったしみじみ

 

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