加藤健一事務所「ドレッサー」@本多劇場 | 明日もシアター日和

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テーマ:

作 ロナルド・ハーウッド

演出 鵜山仁

出演 加藤健一/加納幸和/一柳みる/西山水木/石橋徹郎/金子之男/岡﨑加奈

 

 舞台「ドレッサー」はDVDで観た1983年の映画版(アルバート・フィニー/トム・コートニー)が自分の中ではデフォルトになっていて、無意識に比べてしまうんだけど、この加藤健一事務所による舞台は、それと重ねる必要がないほど良かったー。

 近年の舞台では橋爪功/大泉洋が演じたのを観たけど(2013年)、演出が三谷幸喜で、シェイクスピアのシェの字も感じられない、全く別モノ作品になっていて非常にがっかりでした。解釈はいろいろだろうけど、基本、これはシェイクスピア戯曲「リア王」とパラレルにあることを意識して作る/観ないと、作品の深いところにある面白さは感じられないと思う。

 

 背景は第二次大戦中のイギリスで、街から街へ移動しながらシェイクスピア劇を上演している旅回り一座。その座長兼老優(名前は付いてない)と、そのドレッサー(衣装係兼付き人)ノーマンが主な登場人物。その日も「リア王」を演じる予定なのに、心身が壊れかけている座長は舞台に上がることに恐怖を覚えている。彼をなだめすかして(その間、他の役者やスタッフといろいろありつつ)ようやく座長を本舞台に送り出すノーマン。舞台は無事に終わったけど、楽屋に戻った座長は、書きかけの自叙伝を残したまま静かに息を引き取り、その自叙伝の献辞を読んだノーマンは愕然として……幕となります。

 

 図式的には、老優/彼が演じるリア王と、彼に19年仕えてきた付き人/リアの道化のドラマです。現実と芝居が深いところでシンクロしていて、人生の非情、悲しさ、可笑しさ、ほんの少し不条理さが終始漂っていました。

 今回のカトケン版は、何と言っても座長の加藤健一とドレッサーの加納幸和の組み合わせが絶妙だわ。2人のセリフのやりとり(間髪容れない応酬や、間の置き方など)の妙はもちろん、尊大でエゴイスティックな座長と、甲斐甲斐しく世話を焼き時々座長をやり込めるノーマンの絡みが面白い。2人が年齢的に極端に離れていないせいで、老優と、彼と共に人生を歩んできた付き人という、表裏一体の関係がクリアになっていたと思います。

 

 カトケン演じる座長がまさに適役でした。高飛車でわがままでワンマン(カトケンがそうだと言ってるわけじゃないですよ)。で、かつては名優として人気を博し女性にモテただろうと思わせる色気も残っているんですよね。演じることが人生になった今、その重みに押しつぶされそうになっていて、演じなければという強迫観念に苛まれているところは同情を覚えるし、老いが押し寄せてくる事実に目をつぶり、セリフを忘れる恐怖におののく姿は弱々しく哀れ。

 そうかと思えば、女優の卵のお尻をこっそり触り、端役の年配役者に温かい言葉をかけ、野心家の役者を恐れ、相手によってコロコロと態度を変える見せ方が本当に上手いです。ノーマンに当たり散らし酷使しながらも彼がいないと何一つできないことを分かっていて、自分を見捨てないでくれとすがりつくところが泣ける〜。そして、ひとたび舞台に立てば堂々とリア王を演じてみせる、その切替えの巧みさ。加藤健一やっぱり素晴らしい。

 座長は何よりも、自分の名前が忘れられてしまうことを恐れている(座長に名前がついていないことに、今更ながら気づいた)。でも、彼の存在は大戦の終了→新しい時代の到来とともに人々の記憶の奥に押しやられるでしょう。劇場の外から聞こえる空襲警報や爆音は、座長にとっては、リア王の心身を苛む嵐なんだろうな。

 

 ノーマンを演じた加納さんもまさにはまり役でした。少し線の細い雰囲気と声が、リアルなノーマン像を作っていたように思う。座長の周りにはべる姿は世話女房そのもの。芝居の準備や後片付けをしながら、セリフを思い出させたり演技の評価をしたり愚痴を聞いてあげたり。座長の暴君的な性格も理解し、逆に彼を守ろうともします。でも、自分は座長を知り尽くしていて、自分こそ座長を支えているのだというプライドは、彼の実態を覆い隠しているみたい。本当は彼は、みじめで孤独で絶望していて、それを真正面から見ようとしないんじゃないかな。加納さんの演技から、そういうノーマンの闇を感じました。時々思い出す「私の知り合い」の哀れな過去は、全部自分のことなんですね。

 座長とノーマンは互いに依存しあっているんだけど、特にノーマンにとって座長は自分の人生を捧げた存在です。ところが座長にとってノーマンは「存在の無い存在」なんだな。劇中劇でリアの道化を演じた役者が座長に「道化はどうして途中からいなくなってしまうんですか」と尋ねるシーンはとても象徴的です。道化はリアの影法師だったように、ノーマンも座長の影にすぎない。ノーマン/Norman=no manとつながります。

 

 座長が書こうとしていた自叙伝の献辞で、座長は、観客、役者たち、スタッフ、シェイクスピアに感謝の言葉を贈っているけど、そこに舞台監督とノーマンの名前はなかった(でも舞台監督は、座長が大切にしていた指輪を贈られているからね)。献身してきたつもりだったノーマンは(傍で死んでいる)座長にイジイジと恨み言をぶちまけます。とても人間臭いシーンで、落胆と悔しさで本心をさらけ出す加納さんの演技が身にしみて痛かった。

 仕えるべき座長がいなくなった今、本当に何者でもなくなってしまったノーマン。最後に口ずさむのは「十二夜」のフェステの歌かな、物悲しさを引きずりました。タイトルが示す通り、これは座長の影法師として生きたノーマンが主役のドラマなんだと納得です。

 

 

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