

私は今日、ピンクの肘掛け椅子に座りながら、本を読みました。
世界的に有名な霊媒者がどのように精神世界と私たちの物質世界とをつないだのか、
そして残された人たちの悲しみをいかに終わらせたのかについて書かれた本です。
私は読書後、愛が宇宙そのものの主題であることを、今まで以上に深く認識しました。
これこそが、この世に残された人たちに故人が伝えたことです。
故人が最も後悔しているのは、生きている間に周りの人たちを愛さなかった、
あるいは愛していることを伝えなかったことなのです。
救世主が「私を愛する者は滅びないであろう」と言ったのは、どういう意味だったのでしょう?
死は現実ではないから、魂は永遠であるというのはどういう意味でしょうか?
愛に飢える苦しみの終わりを意味するのだと、私は思います。
愛されないということは、死んでいるようなものですから。
愛は普遍的なものだと魂が理解すれば、愛する気持ちは自然に湧きおこるでしょう。
愛されることは、愛を表現することだからです。
光と愛は一つのものであり、同じものです。それどころか、私たちが愛を感じる時、
私たちを包む愛は光なのです。
人間の愛は、欲望によって左右されます。
魂は、自分自身を自我、精神、肉体と間違えて、欲望の対象を持ちたがります。
魂は成長を求めて、欲望の対象を自分自身に取り込もうとするのです。
例えば恋愛においては、恋人たちは同意、安心、支配を求めます。
富、美しさ、魅力は恋人の美点を高めるでしょう。他人の自我がそう望むためです。
父性愛はもっと純粋です。もっとも最近では、
両親の才能や価値を子供に証明してほしいと思う人もいますが。
動物が飼い主に対して示す愛情は、ほぼ間違いなく自然に生じるものです。
犬が飼い主の前で喜んだり、猫がなでられて、のどを鳴らしたりするのは、
毎日の生活の中でよく見かける純粋な愛情です。
動物の愛情に駆け引きはないし、見返りを期待してもいないし、
飼い主を操ろうなどと考えているわけではありません。
その愛情は自然に生まれた純粋なもので、その瞬間の喜びを表しただけです。
最後に、他人の望みどおりに相手を愛することができれば、それは究極の愛です。
愛は一体化して超越的なものへと変わるでしょう。
おそらく、神が私たちを愛するように、私たちも他人を愛し始めているのです。
愛そのものを愛しましょう。
それが私たちであり、他人の優しさは私たちにとって、とても明らかなものだからです。
私は、ソクラテスの「魂を神に結び付けるのは愛だけだ」という言葉に賛同します。
聖テレサは「大切なのは、深く考えることではなく、深く愛することだ」と言いました。
この有名な哲学者と愛すべき聖人の言葉は、大きな謎を解き明かしてくれます。
私たちは人生の仕組みに触れることができるのです。私に言わせれば、人生は精神的な旅です。
人生には私たちの考えを超越した、心の道があります。
これは自然に生まれる純粋なものですが、考えたり調べたりし過ぎると、汚れてしまいます。
心が求めているのは、愛する人がいる我が家に戻ることです。
愛する人が感じるもの、つまり無条件の愛を感じるのです。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドからの引用で、この随想を終わりにします。
私がこの短いエッセイでうまく言えなかったことが、うまくまとめられています。
「夫が愛しいのは夫を愛するが故ではない。愛しい夫に宿る魂を愛するが故だ」
「妻が愛しいのは妻を愛するが故ではない。愛しい妻に宿る魂を愛するが故だ」
「子供たちが愛しいのは子供たちを愛するが故ではない。愛しい子供たちに宿る魂を愛するが故だ」
「すべての人が愛しいのはすべての人を愛するが故ではない。愛しいすべての人に宿る魂を愛するが故だ」
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドは人生の書であり、光と愛の物語だと思います。
表に現れるものと現れないものとのラブストーリーです。
神と魂の関係を書いたものです。
魂が神の愛に報いる時、この世の旅は満足のため息で締めくくられるでしょう。
著者について:サリーム・ラナは、心理療法の修士号を持っています。
世界で1万人以上の人が、彼のインターネット上の記事からインスピレーションを得ています。
素晴らしい人生の築き方を学んでください。
著作権 2005 サリーム・ラナ この記事は、自由に友人に紹介したり、
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