『楢山節考』 (1958) 木下恵介監督 | FLICKS FREAK

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1956年発表(雑誌『中央公論』)の深沢七郎の処女作短編はこれまで2度映画化されている。最初は1958年の木下恵介監督作であり、二度目が今村昌平監督による『楢山節考』【1983年)である。

 

木下監督作品は、(エンディングの現代の姨捨駅の映像を除き)オール・セットで撮影され、場面転換では「振落し」(背景が描かれている布を瞬時で落として場面を転換すること)や、「引道具」(大道具の底に車輪をつけて移動させる装置)といった歌舞伎の舞台の早替わりの手法が使われ、長唄や浄瑠璃を全編にわたって使い、歌舞伎の様式美を取り入れた作品となっている。対して、今村監督作品はオール・ロケ(長野県小谷村)で作られ、趣は随分と異なっている。

 

それぞれによさがあるが、木下作品のよさは、大胆に取り入れられた歌舞伎の様式が独特の雰囲気を作品に与えており、それは写実ではなく抽象の美である。そこに浄瑠璃で語られることが、伝統的な音調が与える雰囲気と相まって、補完的となっている。

 

しかし、作品の面白さとしては、圧倒的に今村監督作品であり、それは『楢山節考』と『東北の神武たち』という二つの小説の世界観を結び付けた着想及び脚本のよさによるところである。今村作品では、大胆に性活動の様子(人間のみならず、昆虫や動物のものも)が織り込まれ、「生」を描くことで「死」に対してのコントラストが強調されている。

 

(『東北の神武たち』に描かれた「奴」の性の営みに関する部分を除けば)ストーリーで一番大きな違いは、主人公おりんの孫息子けさ吉の恋人松やんの描き方である。今村監督作品では、顔半分に大きなあざがありながら、性に奔放であるという強烈なキャラクターであり、村で盗みを働き一家生き埋めとされる雨屋の娘と設定されている。村の掟を破ることで「楢山様に謝る」制裁の末、生き埋めにされるシーンは、姥捨てと共に作品の中でも強烈な印象を与える因習の描写なのだが、松やんをその当事者としたことで更に印象は強まる(木下監督作品では、松やんは雨屋の娘ではなく、一族根絶やしのために「一家生き埋めにすればええだ」とその後の運命を語ってさえいる)。

 

原作の世界観をより忠実に描きながら、独特の様式美を備えた木下監督作品も秀逸なのだが、比較すれば今村監督作品のオリジナリティが光る1983年作品であり、カンヌのパルム・ドールにふさわしい作品であることが理解できる。

 

★★★★★ (5/10)

 

『楢山節考』予告編

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