<理解に努める>

 その後、退院した君は詩織との噛み合わない言動を分析する事にした。

 何を話しても「私なんかいなくなればいいんでしょう!」と言う詩織。これは『自分自身に対する防御反応』らしい。実際にこの頃の詩織はかなり歪んだ言葉の受け取り方をしていた。

 例えば「米でも磨ごうか?」と聞くと「わたしがご飯作らないって言うんでしょう!」となる。

 君は「違う違う」と言うけれどもその後はワー!となってしまい、鬱状態に嵌まり込んでしまうのループだった。

 斉藤先生は「会話のキャッチボールでわざと変化球にして、つまり言葉を曲げて受け止めてしまう感じです」と教えてくれた。

 なるほどと感じた君は「とりあえず詩織は、今はこう思ってしまうからこんな行動をしてしまうんだよ」と伝えた。

 また泣くけど仕方ない。
 頭をよしよしと撫でる、話を聞く、ワーとなる。

 もうこれには慣れるしかなかった。

 また「寂しがりな傾向が出てくるので良く話を聞いて下さい」と言われていた。

「詩織、体調はどうだい?」

「…
……………
………………………
………………だるい」(約四分)

「どうだるいの?」

「………………
…………………… …………………
…………重ダルいの。
…こなきじじい乗ってる感じ…」(約三分)

 こんな会話が続く。

 君は当初かなり苛々していた。簡単な会話が一時間はざらな時もあった。鬱に入っている時は仕方ないとのこと。

 仕事が終わって夜十時過ぎに帰宅して詩織のいるアパートに行き、この話しを聞くのは苦痛だった。

 ただじっと我慢して聞く。
 うんうん、そうかそうかと相槌を入れる。

 もはや修行だと思った。
 少しでも面倒くさそうな態度をとるとすぐに「面倒クサイんでしょう!! もういい!! ワー!!」とキレる。
 『究極の聞き上手』になれる修行だ。

 しかし、詩織のワガママばかりを聞いて生活は出来なかったので『これはどう考えても間違っているな』と君が思った時は否定した。

 君は泣こうが喚こうが許さずに『ダメなものはダメ』をハッキリ伝えていた。

 今ならもう少し柔らかく伝えることは出来たかも知れないけれども、当時は自傷行為を含む台風のような詩織の暴動にはキッパリと伝えるしかないと君は思っていた。

 だが、そこが難しかったね。

 理論的な話をすれば、君は『共感』と『共感的理解』の差を知らなかった。

 『共感』とは共に感じること。
 例えば「チョコが好き!」「わたしも!」というのが『共感』。

 『共感的理解』は共に感じるように理解すること。
 先の例に倣うと「チョコが好き!」「チョコが好きなんだね。いいね!」というのが『共感的理解』だ。

 これを知らなかった君は、共感も共感的理解もせずに詩織を断罪した。

 子供たちを蔑ろにしないで欲しい。
 子供たちを傷付ける言動をしないで欲しい。
 子供たちに関心を持って欲しい。

 それは『君の』願望であり、正義だった。

 君が自分よりも家族を優先していたのは十二分に知っているつもりだ。

 ただ、もう少し君に思い遣りがあれば良かった。

 正義とは正しい道理のことだ。しかし、これには個人差がある。

 例えば、立ち小便は軽犯罪法違反である。しかし、三才の子供がどうしても我慢できず、草むらの陰で粗相をした時にも君は断罪するだろうか?

 『仕方がないな』
 『我慢できなかったんですね』

 そう思うだろう。

 もう一つ踏み込んでみよう。

 君の車を運転中に、猛スピードで柄の悪い車が君の車スレスレに追い越し、危うく事故に繋がりそうだったとした時、君はどう思うだろうか?

 今の時代、危険運転は犯罪になる。

 しかし、その危険運転をしている人の家族が今まさに危篤状態で病院に向かっているとしたら?

 ましてやそれが幼い我が子なら?

 君は必ず許すだろう。それどころか擁護するかも知れない。

 『許し』とは上から目線のようで、なんとも言えない表現に感じるかも知れないが、本来の意味は『そう思った自分の心を許す』ということだ。

 『あれがダメだ』と思ってしまった自分の心を許す。

 そうしたら、もっと相手に思い遣りが持つことが出来たと思う。

 この時に君は、
 このような共感的理解を用い、
 最初から自分の正義を基準に断罪せず、
 まず詩織の気持ちを受け止めてから、
 自分の思いはさりげなく浸透させていけば良かったかも知れない。

 しかし、経験の少ない君に、ましてや嵐の最中にいる君に、突然それをするというのも酷な話だ。 

 だから今僕は第三者的な専門機関を間に挟めば良かったと思う。

 なんでも一人で抱え込まないことだ。

 

 

続き

<理解に努める>②