奈良時代、百萬塔が作られ十大寺に分置された時、法隆寺では何処に置かれていたのか?


 先月、法隆寺を訪ねた時のブログで百萬塔について触れましたが、私は今、法隆寺に現存している百萬塔については奈良時代に法隆寺に分置されたものではなく、後世に他の寺院から運び込まれたものだと考えています。その事に関して、mixiの「南都七大寺」というコミュニティーに自分なりの推理を載せさせてもらいましたので、その内容を転載させてもらいます。 


  百萬塔については、以前、西大寺の変遷についての推理を述べさせていただいた時に、法隆寺では講堂に安置されていたのではないかと想像し論述させていただきました。 

 法隆寺の講堂については、天平十九年(747)の法隆寺の流記資財帳に記載のない事から、それ以後に建立されたという説と、流記資財料帳に記載されている食堂が現在の講堂の前身建物で、食堂と講堂の機能を合わせ持っていたという説が有ります。
 私は後者の説を支持させてもらい、流記資財帳の記載から少なくとも天平十九年の時点では食堂には仏像類は安置されていなかったと考えています。

 称徳天皇の発願で百萬塔が造られ十大寺に分置された時、それを安置するための堂を新たに造る寺院が幾つか有った事は確認できますが、法隆寺の場合は食堂の中が空洞の状態だったので、ここに十万基の百萬塔を安置したと考えられます。
 そして、百萬塔を安置した時点から、食堂は講堂と呼ばれるようになったのではないかとと想像しています。
 この建物は延長三年(925)に焼失し、現在の建物は正暦元年(990)に再建されていますので、西大寺の変遷で推理したような西大寺・四王堂の一切経との間のトレードが無かったとしても、延長三年の火災で当初、法隆寺に分置されていた百萬塔は焼失したと考えられます。
 鎌倉時代に法隆寺の学僧顕真が、その当時の法隆寺内の建物、仏像、什器についての詳細を「太子伝私記」に著した時に百萬塔についての記載がないのは、そのためだと考えるのが自然かなと私は思っています。