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緑釉瓦(平城宮東院出土)


②弥勒金堂の再建


私の推理では小塔院の焼失に次ぐ西大寺にとって二つ目の罹災が「続日本後紀」に記載のある承和十三年(846)12月の講堂焼失です。

この時、中に安置されていた仏像も全て失われたと記載されています。 

「七大寺巡礼私記」に弥勒金堂の仏像についての記載が有るので、この時、焼失したのは薬師金堂だという説も有るようですが、大江親通が嘉承元年(1106)の巡礼の時に観た崩壊寸前の弥勒金堂の瓦は創建当初の優美な緑釉瓦では無く、普通の瓦だった事が分かるので、私は承和十三年に焼失したのは鎌倉時代の敷地図通り、講堂の位置に当たる弥勒金堂で、大江親通が観たのは承和十三年の火災後に再建された建物だったと思います。


この再建の時に、「唐招提寺の謎を推理」で述べた唐招提寺講堂の弥勒菩薩三尊の略奪が行われたと私は考えています。


弥勒金堂は薬師金堂と並ぶ西大寺の重要堂宇で、この頃の西大寺は、まだ、財力的に余裕が有ったと考えられ、屋根瓦などは簡略化しても内部は焼失前と同じ弥勒浄土を再現する意図で再建が始められ、弥勒菩薩三尊以外の仏像は旧態に復するよう再興されたと想像しています。

そして、西大寺が大火に有ったと私が推測している貞観二年(860)までには完成し、大火の時にも奇跡的に罹災を免れたと考えています。

そして大火の後は、西大寺の中心堂宇となりますが、前述のように嘉承元年には建物の損壊が進んで、安置仏は食堂に移された状態になっていて、保延六年(1140)に大江親通が再巡礼した時には建物は倒壊して礎石のみになっていた事が分かります。