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普門院の桜
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仁王門と桜
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普門院の藤

4月26日に特別拝観をされていた長谷寺(桜井市)を拝観させてもらい最後に仁王門の外に有る普門院の前の桜と藤が綺麗に咲いていたので写真を撮らせてもらいました。

この日、長谷寺に、お詣りしたいと思った動機の一つは奈良時代、称徳天皇が、この寺に行幸された時に思いを馳せてみたかったからでした。 

前にも紹介させてもらった瀧浪貞子さんの著書「最後の女帝 孝謙天皇」の中に孝謙天皇時代、孝謙上皇時代、称徳天皇時代の行幸一覧を載せておられて、それを見て称徳天皇が長谷寺に行幸された史実を初めて知りました。 

神護景雲二年(768)の10月20日から22日にかけての二泊三日の旅です。 

その前年の神護景雲元年(767)の2月から3月にかけては東大寺、山階寺(興福寺)、元興寺、西大寺、大安寺、薬師寺に行幸されていて、それ以前には寺院関係では河内知識寺、東大寺、薬師寺しか行幸記録がない事と比較すると異常な多さです。 

先月に「称徳天皇と西大寺」というタイトルで書かせてもらいましたが、西大寺は称徳天皇が自分の名前を後世に伝えるために、こだわりをもって造らせた、お寺だったと思います。 

当初に予定されていた八角七重塔や薬師金堂、弥勒金堂に葺かれていたと考えられる緑釉瓦が、その一例だと思いますが堂内に安置されていた数多くの仏像にも、称徳天皇のこだわりが有ったように思います。 

神護景雲元年の京内の諸大寺への行幸は、そこに安置されている仏像の名品を拝し、西大寺に安置する仏像を自分好みにするための参考にする意図も有ったような気がします。

同時期に長谷寺への行幸が行われなかったのは、まだ四王院と対をなす位置に造営する建物に安置する仏像が決まっていなかったからだと思います。 

翌年の秋に、ようやく十一面観音を安置する方針が決まり、その参考にするため長谷寺への行幸が行われたのかもしれません。 

今のご本尊や建物は、近世に再興されたものですが、はるばる、この寺を訪ねて十一面観音像を拝された時の称徳天皇の感激を感じる事が出来ました。