Bar Adieu Romantique No.026『過剰なるもの』。 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

僕の架空音楽バー『Bar Adieu Romantique』へ、ようこそ。

 

『Bar Adieu Romantique』ではお越しいただいた方に毎回、ご挨拶代わりに僕の独り言【Monologue】を書いたFree Paperをお渡ししている。

 

          Romantique Monologue No.026

                     『過剰なるもの』

 

唐突だけど。「過剰」について考えてみた。

 

世の中には「過剰な人」が溢れている。過剰に能天気な人、過剰に何も考えない人、逆に何事も過剰に考え過ぎる人。過剰に忖度する人、過剰にお金に執着する人、過剰に静かな人、過剰に喋る人、過剰に落ち込む人、過剰に怒りっぽい人、過剰に承認欲求が強い人、過剰に劇場型の人、過剰に親切な人、過剰に人と関わろうとする人、過剰に喜ぶ人、過剰にポジティブな人が居れば過剰にネガティブな人が居たり。過剰には常に相反する過剰が存在する。

 

過剰について。過剰に韻を踏んでフローにしてみた。

 

過剰は激情 過剰は非情 

過剰は正常    過剰は異常 

驚くほど   余剰な過剰   Yeah🎵

過剰は強情    過剰は苦情 

過剰は薄情    過剰は同情    

過剰は無情    過剰は愛情

整ったところで 過剰は以上 Yeah🎵🎵

 

もちろん…。過剰がすべて悪い訳じゃない。周りの人を巻き込み、周囲に迷惑をかける過剰もあれば(そういう病気で苦しんでいる人もいるはずだし)、個人の中でのみ熟成され続けるだけで、何ら問題のない過剰もあるのだと思う。

 

そして。過剰について考え、過剰についての独り言をこんな風に過剰に書いている僕自身もまた相当、過剰なんだと思っているけれどうーん

 

過剰ついでに。アートに関する過剰について少し考えてみた。過剰なアートとは何だろうか、と。

 

過剰なアートとは。そう。(あくまでも僕の主観に過ぎないけれど)過剰なアートはヘタをすると、ただ奇を衒っただけの、「よし、皆がびっくりするような絵を描いてやろう」というような、作為的であざとい方向に向かいがちであり、そこから生まれてくるものは概ねとてもツマラナイものである場合が多いえー?


僕が考える過剰なアートとはつまり。アーティストの(或いは制作者の)過剰な、何か得体の知れない過剰な何かが(自己への偏愛なのか、異常な性癖なのか、死へのイメージに憑かれているのか、それはさまざまだけれども)、どうしようもない「性」として無意識下で生成され、この世に産み落とされてしまった作品のことである。

 

と言いながらも。作為的なものは別として。すべてのアートがそのアーティストの必然から生まれる表現であると仮定するなら。すべてのアートはある意味において、すべて過剰なものであると言えるのかも知れないもぐもぐウンウン。

 

つまり。アートという行為自体がもともと過剰なものなんじゃないか、というような、そんなこと。

 

 

                 「Bar Adieu Romantique」店主より

 

そろそろ「Bar Adieu Romantique」のオープンの時間だ。

 

「Bar Adieu Romantique」がキュレーションする、今回のプチ美術展は『無意識過剰なアート展』。僕の独り言で書いた「過剰なるもの」を受けて。無意識が過剰に肥大した、過剰なイマージュの数々を。確かにインパクトは強いかも、だけど。なるべく淡泊に、軽い感じで面白がってもらえればと思うにやり

 

🎨初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイク【Jan van Eyck】(1395年頃 ~ 1441年)の、「怖い絵」でも紹介されることが多い有名な作品『アルノルフィーニ夫妻の肖像』。一見、何をやっている時の絵なのかまったく分からなけれど、絵のタイトルを知ってようやく気付くことができるのは、二人が夫婦だということ。そして夫人は妊娠しているということ。それにしても。黒いマントのダンナ様の、あまりにも無表情で、儀式的なこのポーズはどうしたもんだろうか。笑い飯西田に「このとき、この男性は何と言っているのか」を教えてもらいたいもんだ。

 

それにしてもファン・エイクは。いったい何を見て何を描いたのだろうかと思う。不気味な中にもユーモアがあるようにも見えるし(見えないか)、まったくの本気のようにも見える。もはや。目に見えないものを無意識下で丹念に写生しながら描いたとしか思えない。

 

🎨ルネッサンス期の初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボス【Hieronymus Bosch】(1450年頃~1516)の有名な作品『地上の喜びの庭 (部分) 』。妄想だけで描かれた壮大な人口楽園。細部に至るまで、すべてがあらゆる意味で過剰であり、その圧倒的なイマージュにただ平伏すのみである。

 
🎨ルネサンス期のドイツの画家、ルーカス・クラナッハ【Lucus Cranach】(1472~1553)。どう見てもスケベそうな(お金は持ってまっせー、と謂わんばかりの)爺さんと若い女性。女性が爺さんの注意を逸らすために爺さんのケツ顎を支え、ポーチからお金を抜き取ろうとしているのだとしても、女性のその視線が定まっていないところが実に厄介である。そう。観る者のイマジネーションは膨らむばかりだえー?
 

🎨ジュゼッペ・アルチンボルド【Giuseppe Arcimboldo】(1526年~93年)の作品『四大元素(水)』。魚類や水生生物だけを組み合わせた、すべて手描きによるコラージュである。この異常なほどの執着はまさに過剰だけど、他の誰の作品にも似ていない唯一無二のイマージュの世界でもある。

 

🎨バロック初期のオランダの画家ヘンドリック・ホルツィオス【Hendrik Goltzius】(1558年 ~ 1617年)の作品。一瞬、体中に瘤ができた男の肖像なのかと思ったけど、瘤ではなく筋肉であった。SIXパックどころの騒ぎじゃない。足の指一本一本にも(よく見ると髪の毛にも筋肉が)、いくつもの独立した筋肉が盛り上がっている(どのように鍛えれば、足の指や髪の毛から筋肉を突出させることができるのだろうか)。マッチョイズムの極北であり、究極の「過剰なるもの」である。

 

🎨ルネサンス期の画家、クエンティ・マサイス【Quentin Massys】(1465~1530年)の作品。感想は「一体、何を描いているつもりなのかえーん」である。ほんと、何を描きたかったのだろうか。もしかすると「つもり」すらなかったのかもしれない。タイトルは『グロテスクな老婦人』。そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまうじゃないか。

 

🎨16世紀前半に活躍したドイツの画家、アルブレヒト・アルトドルファー【Albrecht Altdorfer】(1480年頃 ~ 1538年) の作品『アレクサンダー大王の戦い』。感想としては「この画家の眼前に広がっている風景は、いったいどこまで広いのか」である。広大過ぎるし、奥行があり過ぎる。そして、その広大な風景を埋め尽くす人、人、人の波。いずれにせよ、この絵を描き上げるまでの過剰な労力を考え併せると、その目的がまったく分からなくなるのは、僕だけだろうか。

 

📷️アメリカの写真家、スペンサー・チュニック【Spencer Tunick】(1967~)。ボランティアで集めた圧倒的な人数の裸・裸・裸。男女の裸体を風景の中に実際に置いてリアルに撮影することで裸体を抽象化させるというインスタレーションであり、(多分)ナチュラリストとの立場から問題性を提議するコンセプチュアルな作品でもある。ある意味、確信犯的な過剰かも知れないけど、ここまでやれば大したもんだもぐもぐ

 

🎨所謂、アウトサイダー・アートの先駆者であるアドルフ・ヴェルフリ【Adolf Wolfli】(1864~1930)。ヴェルフリはこういった、ちまちました絵ばかりを大判のノートに描き、孤独な生涯の内に全45冊、25000ページにも及ぶ、絵と文字による妄想の物語『揺りかごから墓場まで』を創作した(2017年に開催されたヴェルフリの美術展は圧倒的に過剰だった)。決して、誰かに見せる訳ではないのに、自分のためだけに描き続けることができる、その病的な偏執さこそが強烈なインパクトを放ってくるのである。

 

🎨ベルリンの女性ダダイストハンナ・ヘッヒ【Hannah Hoch】(1889~1978)フォト・モンタージュ。これほどまでに過剰で過激で、POPでモダンな精神が、今から100年以上前に存在したのだ。恐るべし。

 

🎨アメリカ・ミシガン州生まれの女性アーティスト、アンドレア・コウチ【Andrea Kowch】(1986~)の作品。現代に蘇った「魔術的リアリズム」。感想としては「過剰なる不穏~何故にそれほど卵を割るのか。割り続けるのか?」である。
 

🎨ドイツ生まれのシュルレアリストハンス・ベルメール【Hans Bellmer】(1902~1975)の、暴力的なまでのエロティシズムを内包した球体関節人形とドローイングを。無意識下によるエロティシズムは過剰であるが故に強烈な、痙攣の美を生み出した。

 

🎨ウニカ・チュルン【Unica Zurn】(1916~1970)ハンス・ベルメールのパートナーであり、ベルメールの影響を強く受けたアーティストでもある。一切の制約から遠く離れた、あまりにも自由な作品は、陳腐な批評を寄せ付けない。

 

🎨1955年にシュルレアリスムの法王、アンドレ・ブルトンに認められたシュルレアリストであるピエール・モリニエ【Pierre Molinier】(1900~1976)の作品は、過剰な、あまりに過剰なエロティシズムに憑かれている。
 
🎨ブラジル生まれのコラージュ・アーティスト、フェリップ・フローダー【Felipe Froeder】。単純に怖過ぎるだろう。だけど、この絵のどこかに魅かれる自分が居るんだ。

 

🎨メキシコ生まれ。後に活動の拠点をスペインに移して活動したアーティスト、ホセ・ラーマ【Jose Lerma】(1957~2021)それにしても。彼のイマージュはどんなことになっているのかと、思う。

🎨ゼロ年代以降に発見され、話題になったチェコのアーティスト、ルボシュ・プルニー【Lubos Plny】(1961~)。美しい線が重なり合った透明な解剖学的イマージュは、どこかハンス・ベルメールのドローイングを思わせる。

 

🎨若い頃から、もともと統合失調症に悩まされ、日々、幻覚を見ていたという草間彌生【Yayoi Kusama】(1929~)。そんな彼女が日本を代表するシュルレアリスト、瀧口修造の勧めにより1957年にアメリカに渡った後、1960年代前半に制作した、男根で覆い尽くされたソフト・スカルプチュアによるソファ。何と強烈なイマージュだろうか。個人的には。最近の作品よりも、この作品や「無限の網」シリーズなどの昔の作品の方がより過剰で、圧倒的に面白いと思っている。うん、うん。過剰にもいろいろあるのだ。

 
🎨東京藝術大学大学院美術研究科を卒業した松井冬子【Fuyuko Matsui】(1974~)の、2006年の作品完全な幸福をもたらす普遍的万能薬。とても静かだけれど、彼女の精神とエロティシズムの「疼き」とでも言えるようなものが過剰に溢れ出てきている。
 
音譜スペインの画家、ディノ・ヴァルス【Dino Valls】(1959~)。古典的なリアリスティックな画風によって顕れる「シュルリアリテ」。悪夢のように残酷で、白昼夢のように奇妙な。とても「痛い」世界が迫ってくる。
 
🎨1978年生まれのブラジルのアーティスト、エドュアルド・ベルライナー【Eduardo Berliner】。彼が描く作品の過剰さは強いインパクトによる「不穏」である。
 
🎨1971年、ドイツ生まれのティル・ゲルハルド【Till Gerhard】の作品。犯罪スレスレ級のイマージュだな。
 
🎨1981年、イラン生まれのアメリカの女性アーティスト、タラ・マダニ【Tala Madani】女の子なのに、この長いモノはいったい…。とにかく独創的なイマージュだよね。
 

🎨ラトビア生まれの美人アーティスト、ヤナ・ブリッケ【Jana Brike】(1980~)が(恐らく)コロナ禍の中で描いた作品。マスクをしたまま思いっきり息を吸い込んだ時にできた窪み、その形状。イタズラっぽい挑発的な視線にクラクラしてしまいそう。

 
🎨もともとロシアという国には、いろんな意味で「過剰」なアーティストが多いと思っていて、中でもロシア生まれで、現在はベルリンとテルアビブを往き来しながら活動しているイゴール・スカーレッツキー【Igor Skaletsky】(1978~)は、現時点において世界で最も「過剰」な作品を量産しているアーティストのひとりだと思う。中でもこの作品には「エロティシズム」「ファッション」「孤独」「混沌」「ユーモア」「死」に至るまでのイマージュが混沌と過剰に内包されている。
 
🎨1950年ニューヨーク生まれ。現在、世界的な評価を得ている写真家であり、アーティスト。ロジャー・バレン【Roger Ballen】(1950~)のフォト・モンタージュ作品。しかし、これは一体…ダークサイドの写真家、ジョエル・ピーター・ウィトキンの世界 meets ロウ・ブロウ・アートとも言えそうな。まるで意味を否定するかのような「得体の知れなさ」と、奇妙な「ユーモア」が混ざり合っている。

 
📷️フランチェスカ・ウッドマン【Francesca Woodman】(1958~1981)が撮った、まるで亡霊が写り込んだかのような写真。怖いし、近づきたくはないと思いながら、だけど抗えない魅力を感じてしまうんだ。
 
📷️ロシアの女性写真家ユルドゥス・バハショージナ【Uldus Bakhtiozina】(1986~)。彼女の作品に溢れる自由なイマージュにはいつも好奇心を掻き立てられてしまうんだ。
 
🎨現在、最高峰のアーティスト、ゲルハルト・リヒター【Gerhard Richter】「カラー・チャート」シーリーズ。「過剰にミニマル」という矛盾が生じているような気がするなうーん。作品は「カラーチャート1260色」と、1974年制作の「カラー・チャート4096色」



音楽も。どちらかと言うと過剰なものを。
 
音譜オープニングは所謂、プログレ(=プログレッシヴ・ロック)を代表するグループのひとつ、キング・クリムゾンの絶対者であるロバート・フリップ【Robert Fripp】の1979年のソロ・アルバム『Exposure』からタイトル曲を。因みに。昨年、このアルバムを含め、1977~1983年のフリップのソロ・ワークを集大成した25CD+3DVD+4blu-rayの合計32枚組の過剰過ぎるセットがリリースされている。欲しいとは思うけど、とても買えないや、これは笑い泣き
 

 
音譜ジョン・ケージ【John Cage】『4:33』過剰なる沈黙の音楽。或いは音楽における過剰なる沈黙。演奏はこの『4:33』を1952年に初演したデヴィッド・テュードア【David Tudor】。映像の通り、テュードアは4分33秒間、何も演奏しない。映像にテロップが差し込まれる。「私は何も言わない。それが私の主張だから。今、ご覧になっているテレビの音量を下げて、回りの物音に耳を傾けてみてください」と。
 
「沈黙は無音ではない」とケージは言う。さらに。「沈黙」とは「意図しない音が起きている状態」であると。つまり。沈黙の中で誰かが咳払いをする。或いは誰かが何かを落とした時に音が響く。隣の人同士が小さな声でお喋りをする。そう。周囲にあるさまざまな音こそが、意図しない「偶然の音楽」(チャンス・オペレーション)なのだ。
 
🎼楽譜はこんな感じ。完全なる沈黙が指示されている。
 

 
音譜ミニマル・ミュージックを代表する音楽家、スティーヴ・ライヒ【Steve Reich】の初期作品集『Early Works』から。フェイズ・シフティング(位相。連続する音のズレを応用する技法)による曲『Piano Phase』。過剰だけど、とても美しいと思う。
 

 
音譜ジョン・レノン【John Lennon】オノ・ヨーコ【Yoko Ono】の1980年のアルバム『Double Fantasy』から。ヨーコさんの、ジョンに対するNakedな感情を歌った『Kiss Kiss Kiss』。美しいと思うな。
 

音譜同じくオノ・ヨーコの、1973年のソロ・アルバム『空間の感触』【Feeling The Space】から『Woman Power』
 

 
音譜アリ・アップパリモリヴを中心に結成されたガールズ・バンド、スリッツ【The Slits】の、1980年リリースのシングル曲『In The Beginning (There Was Rythm)』はじめにリズムありき。パンクでプリミティヴで過剰で。だけどとても可愛らしい音楽。
 

 
音譜レモン・キトゥンズ解散後、ダニエル・ダックス【Danielle Dax】が1983年に制作・リリースしたファースト・デビュー・アルバム『POP-EYES』から過剰なポップ・プリミティヴな曲『Bed Caves』を。因みに(多分)彼女自身が制作した過剰なフォト・モンタージュによるカヴァー・アートは、日本盤がリリースされた際に彼女の美しいポートレイトに差し替えられた。うーん🤔。だけどそれじゃ、アルバムの意味が違ってくる。
 

📷️美しきダニエル・ダックスのポートレイト。この写真はそうでもないけど、角度によっては微妙にハイヒール・モモコに見えたり、見えなかったり。

音譜シンセサイザー担当のシメオンとドラムのダニー・テイラーによって1967年にニューヨークで結成されたロック・デュオ、シルヴァー・アップルズ【Silver April】が翌年の1968年にリリースしたデビュー・アルバムから『Oscillations』を。突然変異で生まれたような、その荒々しいデジタル・サウンドはとても性急で、過剰な何かを撒き散らしているように思える。


音譜カナダの女性SSW、ジュディ・ドワロン【Julie Doiron】の2002年のアルバム『Heart And Crime』から『Wintermitts』を。彼女の隙間だらけの音楽、或いは静寂の中から立ち顕れるような音楽は、過剰なほど静謐で、ある種のエレガンスを纏っている。


音譜ドイツのロック・グループ、アモン・デュール【Amon Duul】の1969年にリリースされたファースト・アルバム『Underground』から『Im Garten Sandosa』を。ドイツの音楽、つまりクラウト・ロックは軒並み、過剰なんじゃないかと思っている。
 

 
音譜ドイツの奇才プロデューサー、コニー・プランクのハンマービートに乗って、ガビ・デルガド・ロペスロベルト・ゲールという男性同士が喘ぎながら歌う過剰な世界。D.A.F【Deutsch Amerikanische Freundschaft】の1981年のアルバム『Alles Ist Gut』から『Der Mussolini』
 

 
音譜ディーター・メビウスと、元グルグルマニ・ノイマイヤーによるインプロヴィゼーション・トラックをコニー・プランクがまとめ上げたクラウト・ロック(ドイツのロックを指す)「Moebius-Plank-Neumeier」名義の1982年の傑作アルバム『Zero Set』から『Speed Display』を。
 

 
音譜クラウト・ロックの伝説、カン【Can】のオリジナル・メンバーだったホルガー・シューカイ【Holger Czukay】のソロ・アルバム『Movies』から、あまりにも美しい、そう。過剰に美しい曲『Persian Love』
 

 
音譜最後は。ビートルズの1967年の名盤中の名盤『SGT. Peppers Lonely Heart Club Band』から。ある意味、振り切れた名曲、或いは行き着くところまで行ってしまった名曲『A Day In The Life』で過剰に締め括ろう。
 

 
今回はこれにて閉店。
 
過剰について過剰に書いていたら。何よりも僕のブログこそが過剰なんじゃないのかと思えてきた。正直、最近の自分自身のブログ記事の、その過剰さにはちょっぴり疲弊しているような気もするぶーヤレヤレ。それに第一、自分自身の過剰なブログに、読んでくれる人を巻き込み、付き合わせている訳だしな。今後は、記事の長さ、セレクトする画像の数や音楽の曲数について。もう少し再考していこうと思っている。
 
それじゃぁ、また。
アデュー・ロマンティークニコ