頭で歩かず、足の裏で歩く:テキサスの女馬主と禅坊主 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今回の話は、テキサスで5頭の馬を飼い、その馬とのボディーラングエッジの経験を生かして、日本人向けの母親教育をしておられる日本人女性の由紀子ランディーさんと、前々回のブログで紹介した禅宗曹洞宗の管長であられた板橋興宗猊下の共通点についての話です。そこのブログ『仏は先輩、お経はリズム:猊下のはずの爺さん』 2018-05-09 でも紹介しましたが、板橋禅師は福井県越前市の有名な猫寺の御誕生寺の古老の住職です。今年5月1日に家内のたっての希望でその猫寺を訪れて、奇しくも板橋禅師と親しくお話ができました。そのとき禅師の本『心配しなさんな。悩みはいつかは消えるもの』を頂きましたので、その本にサインをしてもらいました。サインのみならず、禅師のお名前の下に、花押まで書いてくださいました。

 

 

 

その本の中の「頭で歩かず、足の裏で歩く」という章が、なんとランディーさんが最近始められた「裸足家族」という運動の精神とピッタリ一致していたのです。ランディーさんとは私がお手伝いをしている彼女が立ち上げた日本の社団法人「国際ブロードエデュケーション協会」(IBEA)との関係で懇意にさせてもらっています。「裸足家族」の活動については、そのホームページ

 

https://www.facebook.com/groups/1739820929394863/

 

を見ていただくことにして、ここでは、この運動に参加している方の参考になると思いますので、板橋禅師の書かれた文章を紹介しましょう。以下が上記の板橋禅師の本からの抜粋です。(段落の区切りは、ここのブログ用に私が改めました)

 

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金沢の大乗寺で住職を務めていたころ、「足の裏で歩め」と書いて廊下にかかげたことがありました。足の裏で歩めといっても、靴や草履を履くな、ということではありません。一歩一歩大地をしっかりと踏みしめる、そのからだの感覚を、足の裏から実感してほしいと言う意味です。なぜなら、人はどうしても頭で歩いてしまうからです。頭で歩くとは、「あーだ、こーだ」と考え事をしながら歩くこと。「こんな寒い日に仕事に行くのはいやだ」「なんでタクシーの一台も通らないんだろう」「いま、何歩歩いたかな」などと、頭ばかりがフル回転していることが多いのではないですか。

 

歩くというのは、全身の筋肉や神経を使うことです。私はいまでも車椅子などはつかわずに、自分の足で歩きます。人につかまることも、手を引かれることもありません。自分の足で歩くのは、この足の筋肉や神経の動きを「実感」するためなのです。それが、「いのち」そのものを感じることだからです。頭で考えるばかりで、いのちを実感しないのはもったいないことです。一度足元を見直しましょう。

 

禅では、このことを「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」といいます。この言葉を見て、「ああ、お寺の入り口にそう書かれた札が下がっているね」と気づかれた方もいらっしゃうでしょうが、あれは、「履き物をそろえなさい」という意味の注意書き。もちろんそれも大事なことです。

 

しかし、「脚下照顧」には、もう少し深い意味があるのです。それは、「真理は外に求めるのではなく、内に実感しなさい」ということ。内とは、まさに自分のからだです。坐禅ではなく「歩禅」という歩く禅行もあるくらいです。一歩一歩足の裏を感じて歩けば、「いま、息をして」「いま、生きている」いのちの喜びを、実感することでしょう。

 

自分を見失いそうになったとき、悩んだとき。歩く実感で心のモヤモヤを吹き飛ばしてください。歩くことで血行もよくなり、脳も活性化します。ストレスが軽減され、快眠体質になるなど、いいことづくめです。朝のウォーキングを習慣にするのもいいでしょう。時間のない人は、通勤途中や買い物へ行く道の五十歩、百歩でもいいのです。ぜひ足の裏を実感してみてください。

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板橋禅師は他にも『足の裏で歩む―板橋興宗米寿記念随想 』という本も書かれています。

 

余談ですが、漢文も自在に読みこなす禅師の文章としては、上記の文章には漢字で書くべきところもひらがなで書いてあり、禅師としての個性が現れていないことにお気付きですか。もちろん、上記の文章で素晴らしい内容が語られていますので、これでも文句は言えないのですが。私の想像するところ、この文章は、禅師をインタビューした方が文章を書き起こし、それを禅師が追認たか、あるいは禅師の書かれた文章を出版社の方が今様に書き換えてそれを禅師が追認た文章だと思います。私も日本の出版社で発行された本を書いたことがあるので、そのように感じるのです。実際出版社には専門家がいて、お決まりの規則に従って硬い表現を平易な表現にしたり、漢字をひらがなに直すなどの校正をします。出版社としてはできるだけ多くの方に読んで頂いて利益を上げなくてはならないので、止むを得ないことなのでしょう。その結果、文章は教科書通りになってしまうので、著者の個性が消失してしまいかねない。個性を取るか、売り上げを取るかの問題なのでしょう。文章を書く身の私には、個性を大事にしてもらいたいのですが、出版社としてはそうもいかないのでしょう。本の題名も著者には選ぶ権利がないと聞いております。