ご無沙汰しております


ご心配おかけしていると思いますが


私は元気に過ごしております☺️


ブログをお休みしている間に


たくさんのメッセージ頂きましたが


ブログに登場する母を好きだったと


おっしゃってくださる方が多く


感謝の気持ちで心が温かくなりました


この場をお借りしてもう一度


お礼申し上げます


ありがとうございました


母については


ありのままを綴ってきたのですが


振り返ると母の90年の生涯は波瀾万丈でした


生後間もない娘を亡くした祖母が


2番目に産まれた母を


壊れ物を扱うかのように育てたのは


想像の範疇なのですが


裕福な家に生まれながらも


戦争体験者の母にはそれなりの苦労あり


よく「芋飯」の話を聞かされました


田舎に住んでいたので


飢える事はなかったようですが


物を捨てられなかったのは


物の無かった時代に育ったからなのでしょう


祖母に溺愛されていた母は


戦後の娘時代に始発電車で大阪の短大へ通い


その後出会った父と恋愛結婚


跡取り娘でありながら


親の勧める結婚をせず


憧れの大阪で新婚生活スタート


だけど甘やかされて育った母は


姑である父方の祖母との折り合い悪く


そのせいか私の物心ついた頃には


毎晩のように夫婦喧嘩が絶えず


父が外に安らぎを求めてしまった事を発端に


坂道を転げるかのような結婚生活破綻


父の経営する会社の倒産を期に離婚


その後40歳にして人生の再建


美容学校へ進み


実家の援助のもと


今のお店を開業する運びとなりました


当時のお店は雇った技術者のおかげで


とても繁盛していたそう


今でもその頃のお客様が


いらしてくださってますが


いつも人で溢れていたとおっしゃいます


母の商売の魂は


薬局を繁盛させていた祖母の影響なのか


毎日朝は早く、夜は遅くまで働き


堅実な経営で私達を育ててくれました


離婚した父とも


後にはひとつ屋根のしたで暮らす事となり


内縁関係ではありましたが


父の最期も一緒に看取ってくれました


母自身の両親の介護には


頭の下がる思いしかなく


特に献身的な祖父への介護は


自分の身を削って徹していました


実妹との長年の確執は


祖父の遺産相続の時に調停で争うほどで


その後も歩み寄ることはありませんでした


叔母には未だ母の訃報を知らせていません


母の遺志でもあり


私もその必要がないと思っています


あれほどにいがみ合う姉妹にしてしまった


祖母の育て方は間違っていたのでしょう


母へだけの溺愛が原因しているはず


本来なら二人きりの姉妹


両親亡き後は支え合うべきところなのに


最後の最後まで歩み寄ることはなく


母の人生を寂しくした一因になりました



少年時代からの兄とは折り合いも悪く


兄は母の呪縛から逃れるように


16歳の若さで母の元を去りスペインへ


その後は日本で暮らすこともなく


「母との楽しい想い出はひとつもない」


母の死後そう呟いた兄が


私には気の毒に思えてしまいました


私はというと


和歌山やスペイン留学


独り暮らしの時期以外


結婚してからもほぼ毎日母と過ごしていて


出歩くのが苦手な母とも


何度かのハワイ旅行や温泉旅行


たまに一緒に出歩くお買い物


特に私の結婚が決まってからは


毎日のように一緒に出歩いた事があり


共有の想い出は少なからず


それを思うと母は幸せだったのかもしれない


花嫁の母としての誇らしげな顔をした母


誰より先に産まれた娘を抱いて


嬉しそうに微笑んでいた母


娘のお宮参りや七五三


そして


この何十年かで母が一番幸せだった日


親子三代で通った学校での表彰の日


撮って頂いた写真には満面の笑みの母



「私の遺影写真はこれにしてほしい」


この写真を頂いた時から


つい最近まで一貫して言い続けていた母


16年前の写真ですが


母のお気にいりだったので


迷わずこちらを遺影にしました


74歳の母です

私が一番好きだった最近の写真はこちら
万全な体調で迎えた90歳のお誕生日

私からのプレゼントを嬉しそうに持つ母

この笑顔がたまらなく好きです

こちらも遺影と同じ様に額入れして頂き

お店に飾りました

訪れてくださるお客様が

今でもそこに座っているみたいね、と

この母の近影を見ておっしゃってくださる


母とは色んな事がありましたが

「後悔」というなら

父が亡くなった時の方が強かった

流した涙も比べられないほどに多く

喪失感や罪悪感に苛まれたのは

父との最後の会話のせいだった

母に対しては

私が言ってしまった言葉など

それには母も相当な事を言っているので

お互い様なんだと感じるし

深く悔やまれるのは

この先色々なシーンで

母を思い出す時なんだと思う

唯一

夏に母がコロナに罹患し

その後の情緒不安定の果てに

父の祥月命日の日に

私に対して酷い事を言った後

許してよ

堪忍してよ

前みたいに仲良くしてよ。。。

そう泣きながら私に懇願した母に

いつものように

「いいよ、仲良くしような」

そう返してあげれなかったこと

その後も母のお世話は同じ様にしていたし

許すも許さないもないことだったのに

あの時の私は

それを言葉にして返す事ができないほど

疲れていたのだと思います

でも、きっと母はわかってくれているはず

母を思い出す度に

私の頭に浮かぶのは

泣いたり怒ったりの母ではなく

「嬉しい顔」や「美味しい顔」の笑っている母

それはきっと私自身

母にはやれることの全てをしてきたという

自己満足なのかもしれません

たくさんの苦労をしてきた母ですが

私や兄の存在は心の支えだったに違いない

兄は母に何をしてあげたわけではないですが

息子というのは存在してくれるだけで

親孝行なのだと感じる

息子の出世は母にとっても

勲章のようなものだった

90歳の生涯現役を貫けたのは

私の存在が大きかったはずだし

私達親娘は長く側に居られて

お互いが幸せだったのだと思います
 
母が亡くなってからは

初めての経験が盛り沢山で

脳を活性させながら日々奮闘しています

何事も勉強ですからね(笑)

私が意外にも元気なのは

ポジティブ思考のおかげだと思います☺️

毎日目まぐるしい忙しさで

アメブロから遠ざかっていましたが

これからは少しずつ

備忘録を綴っていくつもりです

お付き合いして頂ければ幸いです

テツコ