杉原理興 (すぎはら まさおき) | げむおた街道をゆく

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山名 理興(やまな ただおき/まさおき、生年不詳 - 弘治3年(1557年)は、戦国時代の武将。備後国の国人で、同国神辺城主。宮内少輔、豊後守。陰徳太平記では「杉原忠興」と記される。



ー 生涯 -

出自
江戸時代後期の地誌「西備名区」によると、理興の父は伯耆国尾高城主「山名時興」とされる。江戸時代中期の地誌「備陽六郡志」によると、元は八尾山城(府中市)城主であったとされる。
通説では、元は杉原理興といい大内義隆の後ろ盾を得て天文7年(1538年)に備後国守護の山名忠勝を神辺城から追い「山名」の名跡を名乗ったとされている(福山市史など)。しかし、理興が「杉原姓」であった一次史料は見つかっておらず、文献で杉原姓が記されるのは江戸中期に記された軍記物語「安西軍策」や「陰徳太平記」からである。また、古文書では理興は神辺城主になったとされる天文7年以前から備後南部を支配していたことが伺え、理興は元々山名氏(伯耆山名氏)の一族であった可能性が高いと考えられる。なお、理興が杉原姓であったとする立場から杉原氏の本拠・備後銀山城(福山市山手町)の城主であったとする説もあるが、上述の理由から近年は否定的な見方が強まっている。

戦歴
天文11年(1542年)、理興は大内氏に従い出雲の尼子氏攻め(月山富田城の戦い)に参加するが、この戦で大内氏が大敗を喫した際に多くの武将と共に尼子方へと寝返った。
しかし、天文12年(1543年)に勢力を回復した大内氏は理興の拠る備後南部へと攻め込んだ。この合戦(神辺合戦)が理興の名を広めることになる。神辺合戦では、圧倒的な戦力差もあり理興は支城を次々と落とされ、天文16年(1547年)には本拠である神辺城への総攻撃が行われるが、理興はこれに耐え切った。
天文17年(1548年)年には大内方の主力は撤兵するが、神辺城の対岸に城(要害山城)を築いて平賀隆宗を残している。陰徳太平記では、理興は武勇に優れた武将でとして描かれ、隆宗との戦いに関するエピソードも記述されている。同年7月に平賀隆宗は陣中で病没するが、主君を失った平賀勢が神辺城めを継続。9月4日に、理興は尼子氏を頼って月山富田城に逃亡し、神辺城は開城した。なお、理興が神辺城を去った理由について、陰徳太平記では理興が平賀隆宗が神辺城を賭けて互いが的となり弓を引き合う一騎打ちを行ない、負けた理興が約束通り城を明け渡したと記されている(ただし、史実とは年・日付が整合しない)。
その後、天文23年(1554年)の防芸引分)で大内氏・陶氏から毛利氏が独立すると、備後の勢力基盤を継承した毛利元就に恭順を許され再び神辺の安堵を認められた。
神辺城帰城から2年後の弘治3年(1557年)に死去。嫡男の直良は死去していたため、神辺城主は家老の杉原盛重に受け継がれた(神辺合戦で盛重の活躍に目を留めていた吉川元春の推薦とされる)。


以上、Wikiより。



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