あの頃 | ときどき通信

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折々の話題、世の中の動き、創作料理などじいじの思いつくままのお気軽エッセイ。

 子供のころは秋になると家の前の里山に入りこんでキノコや山栗を採ったものだった。キノコは子どもには見つけるのが難しかったが、祖父や父はは名人だった。ビクを背負い、一人山の奥深く分け入り、珍しいキノコをビクが溢れるほど採ってきた。栗は木をゆすって落とし、拾った。母が鍋で茹で、それを針で糸を通して数珠つなぎにし軒先にぶら下げて乾燥させた。冬の間のおやつになった。乾燥芋もたくさん作り、これもおやつ。

 

 木枯らしが吹くころになると野沢菜を収穫し、洗って漬け込む。手の切れるような水で洗うのはつらかったが、歯を食いしばって耐えた。なにしろ、食糧事情厳しき時代だから野沢菜を初め、たくあん、白菜漬け、味噌漬けなど漬物は冬の間の貴重な食料だった。母の漬けた漬物はどれも逸品だった。


 里山は秋に限らず一年を通して子どもたちの格好の遊び場だったし、山菜や野草、木の実の調達基地だった。当時は鞍馬天狗がヒーローで、チャンバラが主流だった。刀は木の枝を切ってナタで削って作った。雨の日は室内でチャンバラをして電球を割ったり、障子を破いて、その度にこっぴどく叱られたが懲りなかった。


 里山は又、燃料の補給に欠かせない場所でもあった。雑木を切り、薪を作った。薪割りは学校から帰ったあとの子どもの仕事だった。ゴルフで「飛ぶね!」と言われるのはこの頃の力仕事が与っているのかも知れない。


 農業の後継者不足が言われて久しいが、里山の荒廃もそれに歩調を合わせて惨憺たる状況だ。陽射しを遮る杉などの常緑樹が伸び放題、薪が必要なくなった雑木も切ることがないまま放置され、風も通らないので木の実も付かず、キノコも出ない。熊などが頻繁に人家や畑に出没するのも里山の荒廃のなせる業だ。


 と、まあ、あの頃を思い出しては嘆いている訳だが、高齢化が進み、生活スタイルも一変した今の時代言うは易く行うは難しだ。


 折しも尖閣諸島での中国漁船逮捕・連行で日中関係がギクシャクしている。生活必需品の多くを中国に依存してしまっている現状を背景に中国は言いたい放題、やりたい放題だ。今一度、日本人の暮し方、自給のあり方を考えてみる良い機会かも知れない。農業や里山もそんな連関で捉えなおして見てもいいのでは。