暗越奈良街道の玉造~深江を歩く(後編) | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

「暗越奈良街道の玉造~深江を歩く」の後編です。

今回の徒歩区間の出発点である大阪環状線玉造駅の思い出の画像からです。

2014年3月の玉造駅です。

 

ビエラ玉造と201系の対面(?)です。(2014年3月)

 

ビエラ玉造と、そのモデルになっている103系です。(2014年3月)

 

今里通の東側にある奈良街道の道標とモニュメントです。

 

堺屋太一(1935年-2019年)氏のアイデアによる「(大阪府の)歴史街道」の一つである「暗越奈良街道」の解説が掲出されていました。

副題は「シルクロードの終わるところ」です。

 

その奈良街道が南側に曲がるところの突き当たりの家屋に出ていた看板です。「広告募集中」ですので、いわゆる「埋め草」の広告(自主広告)なのでしょうけれど「ようこそ シルクロードへ!」という堺屋太一氏の言葉と同じ趣旨の文字が書いてありました。

 

一旦は南向きに進んだ道が東に曲がった後の街道の風景です。このあたりは道幅も狭く、いかにも旧街道らしい風景でした。大阪府の歴史街道の印も、いつもの歩道部分(路肩側)ではなく道路の中央に埋め込まれていました。

 

街道沿いの古い町屋は江戸時代から明治時代中ごろまでの町屋らしい「厨子二階(つしにかい)」と言われる中2階の構造です。

このあたりの町屋の厨子二階の窓には、旧街道によくある虫籠窓の家はあまりなく、明治時代以降のデザインと思われる粋なデザインの窓になっています。

「うだつ」があがっている町屋も多く、奈良街道の旅にふさわしい風景でした。ここが大阪市内とは思えない街道の面影が色濃く残っています。

♪いまだに うだつが 上がらない~

 

厨子二階の窓は、まるで競い合うようにデザインが異なっています。それに「うだつ」についても、それぞれの家で独自のデザインを採用しているような感じでした。

 

東成区役所による「旧奈良街道」の看板です。

 

旧大今里村の氏神である熊野大神宮です。

東成区によりますと、「石山合戦の際、兵火にあいましたが再建され、元和(17世紀前期)以降大坂城代就任と領内巡視の時は、必ず社参することを恒例とした社で、熊野権現と称し、明治5年(1872年)に現社号に改め、同44年(1911年)旧東今里村氏神八剣神社を合祀しました」ということです。

 

真言宗の妙法寺です。

東成区によりますと、「聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝7年(1679年)から元禄3年(1690年)まで住職をし、また修学の道場としても有名で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています」とあります。

真言宗の妙法寺の境内です。左が庫裏(寺務所)のような感じ(?)でした。ここには伝統的な虫籠窓がありました。

右側は大黒天を祀るお堂です。かつては「今宮えびす」と並び称される「今里の大黒」として参詣者で賑わっていたそうです。

 

今里新道商店街を東に向かって歩きました。東側は昭和の商店街という感じです。人通りはそこそこあるものの、シャッターが閉まっている店舗跡が目立ちました。

東成区で気づいたことは、昔ながらの大阪のお好み焼き屋が今も多い点です。昔の大阪では主婦の内職のようなお好み焼き屋が多かったのですが、私の生家付近も、今では、そういった昔のお好み焼き屋が絶滅しています。専門家の分析によりますと、大阪の零細または一人親方のお好み焼き屋は、横の繋がりが希薄なため、結束力がある「広島焼き(広島風お好み焼き)」のようなブランドにはなっていないということです。

 

平野川分水路を渡ります。南側に近鉄奈良線・大阪線が見えていました。

偶然にも、阪神1000系の「阪神・近鉄相互直通10周年ラッピング車」が通過しました。

 

国道308号(内環状線)を通過して東に進むと深江(深江南)です。

 

文保2年(1318年)に融通大念仏宗の中興の祖といわれる法明上人(ほうみょうしょうにん)の開基で、境内に「雁塚(かりつか)」と呼ばれる二基の石塔があることで有名な寺院が法明寺です。現在は浄土宗知恩院派の寺院です。

 

深江の菅笠(すげがさ)のゆかりの地である深江稲荷神社です。

深江稲荷神社は旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603年)豊臣秀頼が社殿を改造したとも伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬいむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、大阪市から史跡に指定されています。

 

深江稲荷神社の境内にある万葉歌碑です。

四極山(しはつやま) うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟 
 万葉歌人 高市黒人 

 

人間国宝角谷一圭記念深江郷土資料館です。後で聞いた話では、この中に深江菅笠も展示されているそうです。(私は未確認です)

角谷一圭(1904年-1999年)氏は、深江の出身で、茶の湯釜の重要無形文化財保持者(人間国宝)だった方です。

深江に移り住んだ笠縫氏(かさぬいし)の祖先は、代々、皇祖の御神鏡を守護したと伝えられています。深江稲荷神社に天津麻羅大神(あまつまらおおかみ)という鋳物氏(いもじ)の守り神がまつられていることからも分かるように、深江は古くから鋳物とかかわりが深い土地であったと思われます。

角谷一圭氏も1973年の伊勢神宮式年遷宮の際に神宝鏡31面を鋳造されています。

 

大阪市東成区深江南付近は笠縫氏の居住地であり、大和の笠縫邑から笠縫氏が移住してきたという伝承があるようです。

東成区によりますと、「菅笠は、歴代天皇のご即位式や伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮(しきねんせんぐう)に献納されるのを例とし、直径2mにもおよぶ大菅笠が調製され、その技術を地元の方々により保存伝承され今日に至っています」ということです。

南深江の各家庭の戸口に笠の材料である菅(すげ)が飾られていました。

 

【深江菅笠細工保存会】

深江菅笠細工保存会による説明

大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(やまとのくにかさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。
この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」には、深江の菅笠が献納されてきました。

 

ここが深江菅細工工房です。個人名は隠しています。

 

大阪メトロの新深江駅から大阪の中心部に帰ります。

新深江駅に行く途中にあったコクヨ本社です。新深江駅の行楽での利用は初めてでしたが、この建物を見て、前職の仕事でコクヨ本社を訪問したことがあったことを思い出しました。それも四半世紀前の昔のことです。

 

Osaka Metro新深江駅構内の壁画です。江戸時代の街道で菅笠を被っている旅人たちの墨絵と、黄色い深江菅笠の絵が描かれていました。

 

Osaka Metroの千日前線・新深江駅のホーム階の壁にも深江菅笠の絵が描かれていました。

(おわり)