北海道秋の旅(釧路と石川啄木編) | 鉄道で行く旅

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たんちょう釧路空港から阿寒バスの空港リムジンバスに乗って釧路市の中心部へと向かいました。

少しだけ霧に包まれている釧路駅です。釧路は4回目ですが、過去3回は旅行の中継地点でしかなく、夜に釧路に着いて駅前のビジネスホテルに泊まり、早朝には出発するという旅程だったのです。今回は、どうしても見ておきたかった幣舞橋(ぬさまいばし)が一番の目的地でした。

1987年に撮影したJR発足初年のJR北海道釧路駅です。右側に今はない「釧路ステーションデパート」の看板がでています。

 

今回は駅前ではなく幣舞橋からも近いANAクラウンプラザホテル釧路にチェックインしました。

夕食のときにホテルの周辺を歩きました。

 

幣舞橋から見た釧路のフィッシャーマンズワーフMOO(ムー)です。霧が濃くなってきたのと同時に雨が降ってきました。

 

防災行政無線のスピーカーなのか商店街のスピーカーなのかは判然としませんでしたが、定期的にMoon Riverの演奏が釧路市の中心部に流れていました。Moon Riverは、元々は映画「ティファニーで朝食を」の中でオードリー・ヘプバーンが歌っていた曲ですが、音楽アルバム(レコード)で大ヒットさせたのはアンディ・ウィリアムスでした。

♪Moon river, wider than a mile.

I'm crossing you in style some day.

Old dream maker, you heart breaker.

Wherever you're going. I'm going your way.

Moon Riverの曲は釧路に似合っていると思いました。

日没時刻から早朝までの釧路市内は濃霧でした。ホテルの部屋からの撮影です。

朝日が昇ってきた後は、霧が晴れ、良い天気になりました。この日の気温は朝から29度を超えていました。

ホテルでの朝食後、ホテル周辺を散策しました。

釧路川のフィッシャーマンズワーフMOO(ムー)の川側です。ウミネコが鳴いていて、旅情が湧いてくる感じでした。

 

水森かおりさんの「釧路湿原」の歌碑です。この曲は聞いたことがありませんでした。

帰宅後にYouTubeで拝聴しました。

 

美川憲一さんの「釧路の夜」の歌碑です。

1993年1月に発生した釧路沖地震の年に、美川憲一さんが全国でチャリティーコンサートを開き、コンサートの観客からの寄付金と美川さん本人からの寄付金を合わせて、釧路でのコンサート会場で美川さんが釧路市長に渡したそうです。

その後、釧路の人たちが美川さんへの感謝の気持ちを表すために、一般市民や個人事業主・法人などからの寄付金と市の助成金などにより美川さんへの御礼の形で建てられたのが、この「釧路の夜」の歌碑です。これもまた北海道らしい話なのかもしれません。

♪貴方がにくい 貴方が~にくい

 

1976年に架橋された5代目の幣舞(ぬさまい)橋です。1977年に日本では初めての橋を飾る4つの彫刻が設置されました。

・春の像 舟越保武 作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」
・夏の像 佐藤忠良 作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」
・秋の像 柳原義達 作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」
・冬の像 本郷新 作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」

画像の右上の像が本郷新氏の「冬の像」です。

 

幣舞橋を渡ります。これは橋の上からフィッシャーマンズワーフMOO(ムー)を振り返って眺めたところです。

 

橋の南側のロータリー交差点の奥にある丘の上の幣舞公園です。

 

幣舞公園に向かう途中にある出世坂です。

1913年(大正2年)に開校した旧制の北海道庁立釧路中学校が、この先にあったことから「出世坂」と呼ばれるようになったそうです。
現在は校地が移転していますが、旧制釧路中学校は北海道釧路湖陵高等学校の前身です。

 

幣舞公園から見た幣舞橋です。左端の黄色い建物がANAクラウンプラザホテル釧路です。

初代の釧路駅(1901年~1917年)は今ある釧路駅よりも南側あり、行き止まりの終端駅でした。その跡地は「釧路市交流プラザさいわい」が建っているところのようです。

1917年(大正6年)12月1日の釧路本線(←この線名は旧称時代です)の浜厚岸(当初は浜厚岸が旅客線としても終端駅でした。後の貨物駅です)への延伸開業と同時に、釧路駅が終端駅から通過駅になったため、現在地に移転しました。

1963年の地図では、初代釧路駅を貨物駅化した浜釧路駅は1962年に釧路川沿いに移転した後でした。それでも国鉄釧路工場だけが旧釧路駅のところに残っていました。

 

偶然、宿泊したANAクラウンプラザホテル釧路の部屋から釧路川の河口付近の浜釧路駅(移転後の貨物駅・1962年~1989年)の跡地を見ることができました。釧路川の右岸(右側)です。

 

【1987年の根室本線の画像】

1987年に撮影した根室本線(花咲線)厚岸駅とキハ56の普通列車です。

 

これも1987年に根室本線落石駅付近で撮った、まだ健在だった急行ノサップです。キハ53の500番台(キハ56を両運転台に改造した車両)とキハ40の2両編成でした。

 

幣舞橋の南西にある「港文館」まで歩きました。

港文館は1908年(明治41年)に建造された旧釧路新聞社(現北海道新聞社)社屋を復元したものです。石川啄木はこの年の1月21日釧路に着き、そして76日間記者として旧釧路新聞社に籍を置いていました。

社屋は、当時、東北海道唯一の煉瓦造りで、啄木が友人金田一京助宛の手紙に「小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造りの小さいけれど気持ちよき建築へ移転仕候…」と紹介されていました。

この社屋は新聞事業法で北海道新聞釧路支社となり北大通に移転後、1965年(昭和40年)に取り壊されました。その時残された図面をもとに、1993年(平成5年)5月31日に、この釧路市大町2丁目に復元されました。

 

石川啄木の有名な短歌です。

さいはての駅に下り立ち

雪あかり

さびしき町にあゆみ入りにき

1908年(明治41年)1月に詠んだ短歌ですから、これは、まだ道東の終端駅だった初代釧路駅(浜釧路駅)の駅頭の情景です。

なお、「小奴」というのは啄木と深い仲だったとされている釧路の芸妓さんの『源氏名』です。「小奴」こと近江ジン(旧姓は渡辺、野口雨情によると1921年(大正10年)に雨情が京都で小奴と遭遇したときの小奴の姓名は坂本だった)さんが「小奴 書」の「書」を書き忘れたことから石碑の短歌の作者が「小奴」さんであるように見えるため、左下に注釈のような説明板が取り付けられています。

 

幣舞橋の「冬の像」と同じ本郷新氏(彫刻家)による石川啄木像です。

「本郷新記念札幌彫刻美術館」の同作品の説明によりますと、「この像が制作・設置された1972年当時は、旧釧路駅があった幸町公園(C58106号機が保存されているところです。今回は見落としました)に設置されましたが、1991年5月に旧釧路新聞社屋が旧釧路川沿いに港文館として復元された時に碑文とともに啄木像は移設されました。港文館のすぐ近くには幣舞橋があり、本郷の制作した《道東の四季―冬―》も見ることができます」ということです。

 

(参考画像)函館の大森浜にある石川啄木像です。

潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや

(2017年8月撮影)

この像も本郷新氏が1958年に制作したものです。

↓「本郷新記念札幌彫刻美術館」による同作品の説明です。

石川啄木は「死ぬ時は函館で死にたい」と手紙を残すほど函館を愛していました。そして、啄木ゆかりのものがないのはいかにも残念と思う人々が、詩にも歌われている函館の砂山付近に啄木像を設置しようと考えました。それを知った本郷は、啄木像制作は自分の夢の実現でもあるとして、ブロンズの材料費だけで制作を申し出ました。制作から半年ほどで原型が完成すると、1958年10月18日、啄木一族の墓のある函館山の南東に位置する立待岬を遠望できる大森浜に《石川啄木》像が除幕されました。

本郷の啄木の肖像彫刻制作の夢は、青年時代にまでさかのぼります。啄木の詩を読み、啄木の詩歌の底流に流れる「北」「寒」「貧」などの感覚に共感し、怒り、悩み、悲しむ人間・啄木に関心を惹かれました。啄木への興味は、「いつかこの男の像をつくってみたい」という彫刻家ならではの熱意に結びついていきます。制作の機会を得たことを「20年来の夢がかなった」と、53歳の本郷は強い意気込みを当時の新聞に語っています。

本郷 新  氏(1905-1980)は札幌生まれの彫刻家で、高村光太郎氏に師事し、戦後日本の具象彫刻を牽引した人物です。代表作は戦没学生記念像「わだつみのこえ」、札幌市の大通公園「泉の像」、広島平和記念公園「嵐の中の母子像」、稚内市の樺太島民慰霊碑「氷雪の門」、旭川市常磐公園の北海道開拓記念碑「風雪の群像」、札幌市真駒内の冬季オリンピック記念碑「雪華の像」および五輪橋の「花束」、大阪市中之島公園「緑の讃歌」などです。

(つづく)