京阪三条駅今昔(後編)京阪三条駅前編 | 鉄道で行く旅

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今回の「京阪三条・祇園四条」シリーズの最終回は、昔の京阪三条駅前付近と京阪京津線の一部廃止区間です。

三条駅前に当時はあった歩道橋の上からの撮影です。三条駅から三条通に出て行く京津線の80形です。(1974年 ニコンF2で撮影)

電車の上部あたりにあるのが、以前あったナイトクラブの「ベラミ」です。

この撮影の4年後の1978年7月11日の午後9時半ごろに山口組・田岡一雄組長(当時65歳)が、この「ベラミ」の店内で狙撃され全治2カ月の重傷を負った事件の場所でした。

「ベラミ」はモーパッサンの小説から引用した店の名前だと思います。私は、「ベラミ」から、昔のチノンのカメラを思い出してしまいます。

チノン・ベラミ(1981年発売)

 

キヤノンのフィルムスキャナーが誤反応して横長の画像になっています。(こうなった理由は謎)

これが当時の三条駅付近にあった歩道橋です。歩道橋の下の架線は京津線のものだと思います。(1974年 ニコンF2で撮影)

 

昭和天皇御大典のときに建立され戦時体制中の金属類改修令により撤去された後、戦後の1961年に銅像が再建された高山彦九郎像です。

高山彦九郎は「尊皇思想家」でした。紋切型表現により、うっかり「尊皇」に続いて「攘夷派」と書かれてしまうことが多いのですが、実は「攘夷」とは言い切れない人物でした。戦前は銅像が作られるほど敬われながらも、戦後は「狂信的な尊皇派(やや事実と異なる)」と見なされた後、世間から忘れ去られたような人です。

この姿は天皇がいた頃の京都御所に向かって拝礼しているのですが(よく言われる『土下座』ではありません)、歩道橋があった頃は、歩道橋の通行人に向かって頭を下げているような感じになっていました。

LeicaM10-P Summilux35mm/f1.4ASPH. 6bit (2019年8月31日)

 

三条駅前の歩道橋から見た1971年当時の川端通と琵琶湖疏水の放水路です。(1974年 ニコンF2で撮影)

ここは京阪の鴨東線(地下線)のために景色が激変しているところです。当時は広い歩道が疏水と鴨川の間にありました。今も同じ並びであることに変わりはないものの、今とは地形がまるで違っており、これを撮っていた私でさえ、この写真を見て「そういえば、こうだったんだ」という思いでした。

 

↓その場所の現在です。地下駅ができたので歩道橋はもうありません。

2018年3月末に撮影した二条通と御池通の間の疏水放水路と鴨川の間の歩道です。琵琶湖疏水の放水路の北端は冷泉通あたりです。

LeicaM10 Summilux24mm/f1.4ASPH. (2018年3月31日)

 

左が鴨川で右が琵琶湖疏水の放水路です。

当時は京阪の鴨東線もなく、路線バスの不便さもあって、多くの人が京福出町柳駅(現在の叡山電鉄出町柳駅)と京阪三条駅の間のこの土手の道をひたすら歩いていました。(1974年 ニコンF2で撮影)

画像の左上が京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)の昔の建物(建て増し後の複合ビル状態)です。右上が今はないホテルフジタ京都(現在はザ・リッツ・カールトン京都に建て替わっている場所)です。

 

二条大橋の西寄りにあるザ・リッツ・カールトン京都付近から見た鴨川の上流です。画像中央の小川は河川改修後の1935年に料理屋などの「川床」を救済するために作られた人造の川である「みそそぎ川」です。

LeicaM10 Summilux24mm/f1.4ASPH. (2018年3月31日)

 

1986年の京阪本線地下化後に駅名が京津三条駅になって1997年まで残っていた京阪の京津線京津三条駅の運行最終日です。

この翌日の1997年(平成9年) 10月12日に京津線京津三条~御陵間が廃止になりました。同日に、これに変わって開通した京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅などが開業しています。(ニコンF5で撮影)

 

1997年9月末の撮影です。京津三条駅の廃止直前の京阪80形です。鉄道の日の「テッピー」ヘッドマークつきでした。(ニコンF70で撮影)

 

1997年の京津線一部区間の廃止直前の京津線東山三条~蹴上間で撮影した京阪600形です。(ニコンF70で撮影)

これは、粟田口のところに当時あった歩道橋から三条神宮道の交差点に向かって撮影しているようです。

 

蹴上駅と600形の準急です。蹴上は通過です。(1997年 ニコンF70で撮影)

 

蹴上駅と80形の準急です。(1997年 ニコンF70で撮影)

 

思い出の蹴上~九条山間の66.7/(パー)ミル(千分率)の急勾配区間を登ってきた80形です。(1997年(平成9年) 10月11日 ニコンF5)

 

京津線京津三条~御陵間の運行最終日の九条山駅です。(1997年 オリンパスCAMEDIA C800L)

 

運行最終日の80形の装飾車です。周囲に人が写っているためトリミングしました。また初期のデジカメのためカメラ任せのプログラム露出により「被写体ブレ」の状態です。(1997年 オリンパスCAMEDIA C800L)

 

80形の区間廃止の装飾車はフィルムカメラでも撮っていました。撮影者が多すぎて、こういう写真しか撮ることができませんでした。(1997年 九条山駅 ニコンF5)

 

運行最終日の80形の車内です。(1997年 オリンパスCAMEDIA C800L)

 

御陵駅付近の併用軌道を走ると700形の準急です。(1997年 ニコンF70で撮影)

 

ポール集電時代の80形の画像は、こんなものしかありませんでした。(1969年 京阪山科 ミノルタユニオマットII)

 

本シリーズの最後の画像は三条大橋の西詰です。

若い頃から、手土産用に「あられ・おかき」を買うときには必ず利用している「本家船はしや」さんです。

写真家の林忠彦さん(1918年~1990年)の遺作写真集「東海道(1990年)」の東海道最後の一コマが、三条大橋から撮った、この「本家船はしや」でした。

LeicaM6 Summilux50mm/f1.4 (1987年2月8日)

 

ここは昔との変化が少なく、ホッとする空間です。

LeicaM10-P Summilux35mm/f1.4ASPH. 6bit (2019年8月31日)

「本家船はしや」さんの歴史の概要です。

1.元々は宇治で茶業を営んでいた。
2、度重なる水害で茶畑が全滅したので京都の中心部に移転して転業した。
3.京都では茶業の縁もあり、寺町夷川の一保堂の軒先を借りて雑穀商を始めた。
4.米・麦・豆など五穀を扱いながら、えんどう豆を焙煎して、京名物となる五色豆の製造を始めた。
5.1905年(明治38年)に三条大橋の西詰に店舗を構えた。
6.五色豆のほかに、豆菓子やあられなどを販売している。

 

「本家船はしや」が、お茶の「一保堂」と関係が深かったことを初めて知りました。(2018年12月)

 

また再び、一保堂京都本店の「嘉木」で玉露の「天下一(てんかいち)」を喫してみたいです。

本シリーズの閲覧数が多かったことについては、ほとんど期待していませんでしたので、予想外の人気に驚いています。

ご覧下さいましてありがとうございました。

(完)