節目にある価値。 | Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する

金木犀の香る季節になってきた。いつからか一年のうちで最も好きな季節は秋である。毎年、このどこか甘い香りが風に乗ってただよってくる道を歩くと、季節の変わり目とともに自分自身の内面に潜む変化の種の芽生えを感じ、何となく落ち着かないような気持ちになる。

そういえばこれまでも社会人になってからずっと10月とは新たな期が始まる節目だった(たまたま二社とも9末決算の会社だった)。そんなこともあってか、自分にとって秋とはそれまで行ってきたことの終わりの季節であると同時に始まりの季節である。身体に染み付いた習慣とは中々根強いものだし、どちらにしてもいずれかの区切りは生きている上で必要である。

なぜ区切りが必要かというと、区切りとは「整理」をするのにもってこいの機会であるからだ。

目的意識を持ちながら生きているかいなかに関わらず、僕らは膨大な経験と情報の波にさらされ続けている。様々な現象と向き合い、その都度何かを感じ、何かしらの選択をし、何かしらの行動を行い、何かしら自身を変化させ続けている。その結果として、僕らの内面のエントロピーは放っておくとどんどん増大していくのだ。あたかも熱力学第二の法則の実験のように何も外部からの働きがけをしなければ、僕らの内面たる思考や知識はどんどんカオスになっていく。

思考や知識がカオスになると、新たな経験が目の前に表れたときに、それらの経験に自分なりの意味付ができなくなってしまう。人は多くのことを日常の経験からこそ学んでいく。しかしそれは闇雲に経験を積めばよいということではない。経験は学びの必要条件だけれど、十分条件ではない。目の前の経験に意味付し、その経験の主体たる意識をもち、何かしらの思考を行い、何かしらの選択をし、何かしらの行動を起こすからこそ、その経験を振り返ったときにより多くの学びが生まれる。

一方でカオスになってしまったま
まで僕らは目の前の経験に意味付をすることはできない。そうなると僕らは思考を停止させたまま日々を生きることになる。

常に学習することが至上の価値かと問われれば、それ以外にも様々な価値が存在することは否定しない。しかし少なくとも学習は自己を変容させる上で最も有用なプロセスであることは疑いようもない。そして変わりゆく環境に自分の意思でもって変化し、適応していくことは少なくとも僕らが生きるこの日々を幸せなものにする上で必要不可欠だろう。

とはいうものの、放っておけばカオスになることそのものは、おそらく我々の本質に近しい。だからこそカオスにならずにすむ方法を模索しようとすることは何ら意味を持たない。むしろカオスになることを前提としつつ、それら自身の内面を整理する機会を積極的に自身で設けること。これこそが意義ある試みなのではないだろうか。

整理するとは、これまでの経験を振り返り、何を残し、何を捨てるのかを明確にしていくことである。これまでの自身の内面にある価値観や考えに意味付をするとともに、不要なものを捨て、隙間をあけることで来る新たな経験と変化を迎えるための可塑性を高めることである。

思えば内省的な思考をするにも秋という季節はぴったりではないか。かくして、僕はこの節目にある。そして人生は続く。