それでは先日からの続きでございます。
良く覚えてるなんていいながら、時系列が違ったり細かいところは抜けてたりと本当不甲斐ないばかりですが、場所場所であったこと思ったことは本当なんでお許し下さいませ。。
私達が石巻に向かったのは震災から二ヶ月後の五月でしたが、二ヶ月たってもなにも手付かずの場所が多くいまだに凄惨なままの場所が沢山あった。
被災地での二ヶ月とそれ以外の場所での二ヶ月では、時間という概念ですらまったく違ってきてるみたいだった。
それでもその二ヶ月を精一杯生きてきた現地の人の逞しさというのは随所で感じれた。
1日目に向かった石巻漁港近くのヨークベニマル。
勿論一階は津波と津波に押し流された車両や船、土石流なんかでめちゃくちゃだ。
つい二ヶ月前まで普通に営業していたなんて考えられないくらい荒廃してしまった場所。
この場所は震災当初ライフラインなんてものは一切なく、いつ助けが来るのかもわからない三日間を過ごしたそうだ。
幸いスーパーの倉庫なので食料はある程度の備蓄があったみたいでどうにか生き永らえたといっていた。
二階部にあるスーパーの倉庫には20名くらいが避難していた。
ここは震災後すぐから個人的に支援を行っていたりんちゃんが良く訪れていた場所で、私達の団体も再々来たりもしてた。
代表者にはお話しを通して貰ってたので早速青空カット!
ここでもほぼ皆さんの髪を切らしてもらったんじゃないかと思います。
この場所から仕事に向かってた人達も帰ってきたりで徐々に人が増えていく避難所。
避難所というのは基本的に限りなく人を詰め込みます。
例に漏れずこのベニマルも狭い倉庫にぎっちり人が居たんですが、髪を切ってくれたお礼に今日は泊まって行きなさいと。
私達が支援を始める時に決めたことは被災地の方達に迷惑を掛けないこと。
ボランティアに行って現地の人の手を煩わせるなんて意味がないって思ってたんです。
勿論テントも持っていってたし、先発隊のみんなはまだまだ寒い東北の気候の中、何週間もテントで泊まり朝から晩までボランティアをしていたのを聞いてた私は他のみんなの気持ちを聞かずに断った。
他の4人には申し訳ないが、テントと車中泊で我慢して貰おうと。
けど現地の人も引かない。
今日は雨が降るから外は駄目!!
有無を言わさない感じでちょっと笑った。
そうこう押し問答をしている間に、倉庫の中の一部屋を私達の為に片付け、其処で生活していた家族も私達の為に場所を移動してくれて五人の寝床を作ってくれた。
申し訳ない気持ちで一杯になった。
烏滸がましく偽善に近いかもしれないが、手助けになればっていう気持ちで来た東北で、私達(笑私は)は助けられてばっかりだったなと思う。
その夜はみんなと軽く談笑し、電気がないから早めに就寝した。
外は大雨で、なにも機器がない分余計に雨音が大きく聞こえて、今日聞いた色んな話が頭をぐるぐる回っていたが約40時間寝てなかった私達は泥のように寝た。
翌朝、他の4人にいびきが煩かったと言われた時にはまた申し訳ない気持ちで一杯になった。。。
被災地の朝は早い。
出発までは時間もあったので少し辺りを散策することにした。
水の圧力で潰された車。
こんなんどうしようもない。
まっつんが聞いた話によると、今まで津波なんか来たことが無かったので本当に油断したと。。
鹿妻は海からすぐそば、でも大きな津波なんか今まで一度も無かった。。
地震が起きてから1時間近くも津波が来なかったので安心して家に戻ってしまった人も。。
この避難所の方々も恐怖に怯えながら津波を眺めていたそうです。。
いつここが崩れてしまうか。。
津波がおさまり、街を歩くと惨劇が…。
亡くなっている方が非常に多く、道のそこら中に。。
本当に戦争状態に近く、自分が生きるだけで精一杯だったと。。
尋常じゃない精神状態で他人のことなど気にしてられない。
(他人というのは亡くなった方のことも含めます)
なのでこの辺は一週間くらい後片付けがされなかったみたいです。
この辺、自衛隊の支援も遅れ、治安も良くなかった。
かなり酷い地域だったそうです。。
そんな思いのなか、私達を出発するまで見送ってくれたお母さん達。
仕事に行くから見送れないけどありがとな!って出かけたお父さん達。
また勇気を貰って次に向かいます。
文字数制限があるのでここらで。
Hava a rice day!








