信長公は正義感の強い武将

織田信長は1534年尾張の那古野城にて織田信秀の嫡男として生まれ。3男であったが、信長公の母は、織田信秀の正室・土田御前であった為、織田の嫡男扱いとなった。幼名は吉法師。後継者として育てられたが、幼少の頃から奇行な行動が多く「尾張の大うけつ者」と評され、自分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れる日々を過ごしていた。


1551年父、織田信秀の急死により、18歳の信長公が織田家を継いだが、その後も奇行が続いたことから、教育係だった平手政秀が諌めるために切腹した。さすがに平手政秀の死には、堪えたようで、信長公は師匠の沢彦和尚を開山として「政秀寺」を建立し、平手政秀の霊を弔うと言う人情味わ見せている。


信長公は、1554年4月10日からは清洲城を拠点として、その後、小牧城・故理拡・安土城と拡大した領土の中心地に居城を移していった。この領地拡大と共に根拠地(経済の中心地)を移転させると言う行為は、他の戦国大名にはあまり見られなく敵が攻めて来た際に救援軍を出すにしても、中心地から各地に 赴いた方が、領土全体を守れるわけで、大変合理的な考えを持っていたと推測できる。信長公は母親の愛が弟に偏り、実母から愛されなかったと言われており、少なくとも不遇な子供時代を過ごしたようだ。


桶狭間の戦いをはじめ、弟信行が謀反を起こした稲生の戦いでは総大将でありながら自らが先頭に立って奮戦した。大名自身が危険を顧みず、最前線にて戦うことが多いのも異例である。しかし、尾張清洲城主下4群の守護代に過ぎなかった織田家や、幼い頃から「うけつ」と呼ばれて特に信長公によってこれだけ勢力を拡大できたのか?それは、やはり家臣の熱い忠義と、兵の土気が高い事につきる。

1566年から足利義昭を助け将軍職に付け、上洛を果たすとの目標を立て家臣も期待感を持ち一生懸命戦った。


信長公記によると、美濃と近江の山中というのは所(関ヶ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食として暮らしていた。不労者(ホームレス)である。岐阜と京都を頻繁に往き来する信長公は、障害者であるが為、普通に生活が出来ないこの乞食を、度々観て哀れに思っていたようだ。1575年6月、上洛の途上信長公は、山中の村民を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と、村人に要請した。要するに、障害者に対して、生活保護を行ったのだ。

山中の猿本人はもとより、その場にいた人々は皆、涙したと伝わる。

信長公は自分の家臣たちには厳しいが、庶民や弱い立場の者に対しては寛大であったとみることができる。


戦国時代の寺院が世俗の権力と一体化して軍事力を持ったり、僧侶が女に溺れたり宗教としての意義を逸脱し、僧侶の腐敗ぶりを批判し、比叡山に対しても祟りなど恐れず宗教を相手に戦うのも信長公の特徴で、正義感が強かったと言われている。

特に、比叡山の僧侶は夜な夜な寺を抜け出し、女郎買いに翻弄し、その資金を得るため、貧しい農民から強制的にお布施を強いていたと言われており。また、通り掛かりの女性を寺に引き込み僧侶達が寄って集って強姦をしたり、高僧などは何千人の妾を囲っていたとも言われている、寺は快楽の巣窟と化していたのです。


武田勝頼との決戦長篠の戦いの時には、身分の低い足軽が自分の命を犠牲にして危機を救った勇敢な行為を称え立派な墓を建立し身分の上下なく礼を尽くした。

信長公は身分に拘わらず、庶民と分け隔て無く付き合い、中が良かった様子が数々の文献に残されている。実際庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際にはその姿を庶民の前に晒している。

お盆には、安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった、今で言う「安土城ライトアップ」を披露しており「言語道断面白さ有様」と記述され、また、相撲大会を開催させ、優秀な者がいると武士・庶民の関係なく織田家の家来として登用した。


その一方、羽柴秀吉が子に恵まれない正室 ねね に対して辛く当たっていることを知ると、豊臣秀吉を呼び出し厳しく叱責したが、女性である弱い立場である ねね に対して励ましの手紙を送るなど、人間味を見せている。

これらの事例はネットの中より抜粋した情報で、まだまだ人情味ある談話は多くあるので、是非調べて、信長公の良さを知っていただきたい。