信長公は宗教に寛容だった

去年の11月6日、岐阜の信長祭りが多いに盛り上がりました。

武者行列で、今年1月封切りされるレジェンド&バタフライの映画主演のキムタクさんが信長役との事で、岐阜は大賑わいと成り、信長の偉大さをキムタクさんの人気が後押しする形で映画封切りと成る様で、NHKの大河ドラマ第1回目は今一と成った様です。

さて、信長公が宗教に寛容であったなどとうして言えるのか。これは、信長公までの宗教の歴史を見てみなければなりません。

歴史番組では、特にNHKで信長公を悪く言うコメンティターがいます。それと、応仁の乱を事あることに取り上げ、女性を怨恨の恐ろしさを強調した番組にしております。こんな出来事より、まずもって宗教の恐ろしさに目を向けて欲しいものです。


国士大辞典が藤井学さんと吉川弘さんの傍点引用をしておりますが、天分法華の乱(1536年)は宗教間どうしてもの啀み合いは壮絶で、応仁の乱如きではなく、信徒同士の残虐極まりない状態であったと書かれています。

山門(比叡山延暦寺)は、三院集会議を開き洛中法華宗追却を決議し、東寺、神護寺、興福寺、石山寺内の三千と法華宗側の所所に放火、多くの僧俗門徒が焼死に、内裏に残された女子供は押殺され、また水に渇して死ぬ者も数百名に及んだと伝えられていて、応仁の乱を遥かに上回る被害が出ていると言われています。


また、(1532年)六角定頼が京都日蓮宗徒と合力し山科本願寺が建立以来52年で仏国のごときと繁栄したが全焼したと作家の重松明久氏が研究発表されております。


そして比叡山僧兵つ付いて、大嶽健一さんが大山廃寺の覚書でネットに出されており。

1113年~1117年頃から約40年間、小牧大山寺の全盛時代があり、東の比叡山、西の大山寺と言われた時代であり、大山三千坊とも五千坊とも伝えられる様になった時代「大山縁起」によれば、「近衛帝勅願の議につき叡山と聊が法論を生じ、叡山坊師一揆を起こし押し寄せ数坊に火を放ちける」と記され、炎上時の模様についても「大山縁起」では「大山の僧徒ふせぎ戦ふと難も上人は本堂に安座し更に指揮し給はず火裏に 清冷を念じ、四方の煙に等しく命を終わらせ給う、両児は何をか期す可きと直にり給う棹き有様なりまこと数数ところの大伽欄一宇不残(1152年3月15日)消失す」と記されていて「大山縁起」のよれば、叡山僧兵による放火であり、それが、叡山と大山寺の法輪であった事が原因で有るようです。延暦寺は、国会護持を本願とし、大山寺は在地の窮状対策を本願とする。を救済する具体的な手立ての論調で有りましょう。当時の叡山は僧兵が力を持ち、貴族に変わって、意に沿わない事は、武力と新興でもって制圧していたわけで。白川彷徨ですら、手を焼いていたと歌を詠んでいて、延暦寺は更に財力、経済力武力を巨大化させていったのです。

また、大山廃寺の麓にある光岩寺の先代和尚の話しとして比叡山の僧兵 による大山寺の焼き討ちは、坊に火を付ける回って寺から逃げてきた坊を鉄板の上で焼き殺し、その数千坊、稚児僧三百防、そして、馬百頭集めて一気に焼き殺したと言い伝えられており、当然信長公もこの話は聞いたと思われ、特に安土城二階の回り全面に馬の墨絵を描かせていたほど馬好きで、大変激憤したとも言われています。

現在、江岩寺の和尚は先代が亡くなってから一般の商社員だった人が入られこの言い伝えは継承されていません。

この様に宗教は、国を作り巨大な権力又は、権力者の片棒を担ぎ、民衆をお布施と言う形で財産を貪り食っていたのです。


それならば信長公は、作家の井沢元彦氏の(天下布武と信長の謎)で1570年から本願寺と交戦を続けていたが1580年本願寺の石山退却と言う形で集結。その時の講話条件は本願寺に所蔵されており。その中の「惣赦免事」と信長軍に敵対した罪(信長軍の武将兵士を殺した罪を含め)一切問わないとし「往還末寺如先々事」と本願寺に自由に参詣して良い、本願寺に属する寺々はそのまま存続して良い。一切破壊しないとし、これ以降は信長公と本願寺の関係は良好であった。と宗教弾圧はしていないし、宗教が政治に口を出さない秩序(政教分離の原則)を世界で始めて確立させた主導者なのです。

真の宗教弾圧は、後に徳川幕府が行ったキリスト教禁教令なのです。


そして、比叡山を信長公が焼き討ちの件に於いても1571年信長公が浅井・朝倉両氏が匿ったことへの報復として、寺社をことごとく焼き払い、僧俗を斬り殺した。この事件は比叡山を信長公が冷徹に焼き討ちにしたと、公家の山梨言継の「言継郷記」や朝廷女官の「御湯殿の上の日記」などで、500棟強有った建物が焼かれ、女子を含め3千人が斬られた記述があり、仏教徒たちに憎悪の念を抱かせたと、小和田哲夫氏はプライム涌光の中で書いておられます。

信長公が比叡山を攻めた理由は浅井・朝倉勢は京都進軍の為、信長公の弟信治、森可成らを討ち取ったが、信長公の素早い動きにより退路を断れ、比叡山に逃げ込んだ。以前、比叡山に信長公が「我々の行動をさまたげた場合、山一面を焼き払う」通告していたので、それが妨害に当たったとして、火をはなったと言える訳ですが、近年比叡山で行われた滋賀県教育委員会の報告から、焼土層があまり見つからず、その時代の遺構も殆ど出なかったとの報告で、少し山が焼かれた程度で、焼き討ちの証拠は見つからなかったとの事、その後、宗教集団により誇大定義付けが成されて来たと言えるのではないでしょか。


と言う事で、信長公は正義感の強い武将とつくづく思うので有ります。出口王仁三郎が信長公に共感を得たのも分かるような気が致します。


去年の11月7日岐阜新聞の第一面