たとえば、さっき会ったばかりの中年の婦人を「あのひと、独身なのかナ?」と、つぶやくと、となりにいる女性は、訊いてみたらとつっけんどんに言い返す。
「そうね、どうかしら」、といったんわたくしと同じ場所、つまりメザニ(中二階)に立ち止まってくれないのである。
人は他人に問いかける形で、独り言をつぶやくことが多い。いちいち答えてもらうことは期待していない。「聞いてみたら」、のひと言で、ひどく傷つけられる。
ひょっとしたら、女性の嫉妬が、自分でも知らないうちに胸の中にわだかまり、そういうことになるのかもしれない。
オーストラリアの西海岸パースに住んで五年になるが、会話がうまく進まないのは、英語が十分でないことも、もちろんあるが、こちらではこのいったん同じメザニに立ち止まることをしないからでもある。
今、パースはワイルドフラワーが満開の春である。
「あの花はきれいね。あの色黄色よね」。そこで、いったん一緒にメザニに立ち止まり、「うん、そうだね、でもちょっと青味がかっているね」の「うん、そうだね」を挿入しない人が多い。「黄色じゃない、青に近い」といきなり切り返す論法が多い。
イエス、ノーをはっきりさせないと、こちらでは生活できない。世の中、ほとんどのことが、イエスでもなければノーでもない、中間のことが多いのに、いつもどちらかに決めなければならないということは、とてもつらいことである。
他人の気持ちを推し量るとか、いったんは同じ立場に立って耳をそばだてて聞いてやるという余裕もなく、ポンポン会話が進む。女性との会話はそれが多いので苦手だ。英語も十分でなく、文化も違い、年をとってきて難聴にもなったわが身を考えると、あと何年頑張れるのか不安である。