天台山よりも、五台山のほうが優れた聖地であり、
五台山には天台宗の名僧の志遠和尚がいることを
知った円仁は、そこで天台宗の極意を学びました。
さらに、都の長安へ行き、日本にまだ伝えていない
密教やサンスクリット語などを学び、5年間の修行をかさねました。その間に弟子の1人が病死しました。
この頃唐には、皇帝の権力によって、仏教をつぶそうという動きがありました。長安にいる外国僧は、自分の国に帰るように命ぜられ、そむいた者は死刑にするという、厳しい仏教取り締まりが、ありました。命が危なくなり、日本に帰ろうとした円仁は、何度も危険なめにあいながら、847年9月にやっと帰国しました。旅立ちから10年後、円仁54歳のときでした。
唐の長安を去るとき、唐の高僧たちは、中国ではすでに仏教は滅び、今や円仁によって日本に移されようとしている。これから仏道を求めるものは、日本に向かうべきであると言ったと言われています。円仁はこの
10年間を日記の、入唐求法巡礼行記に書き続けました。この日記は、英訳もされ、広く外国は紹介され、
マルコ・ポ-ロの旅行記に東方見聞録よりも高く評価されています。
次回は帰国後、円仁です。
画像もなく短く何回にもなりごめんなさい。