てんざえもんの哀しき告白 -35ページ目
さて、朱子学と陽明学の対立は止揚されたのであろうか?
朱子の格物も、陽明の格物も共に解釈の違いだし、どちらもあり、というのがボクの感想だ。朱子のそれは、現代的意味で自然科学的解釈であり、陽明のそれは、道徳的解釈だと思う。ただ、聖人の定義は、なかなかボクも決められない。
陽明には、伝習録という本があるので、分かりやすいが、朱子には、手軽に入手できる本がない。それがボクのような、儒学の初心者には難だ。

岩波文庫か角川ソフィア文庫にならないか希望したいところだ。



特に、儒教の書籍を読む場合、漢語辞典は、必要不可欠である。ある意味、漢語辞典は、儒教の百科事典と言っても過言ではあるまい。
漢語の場合、漢字一文字に重要な意味が含まれているので、漢語辞典はなおさら必要である。ボクの苦手だった王陽明の思想も漢語辞典を頼りに理解出来てきた思う。

漢語辞典で儒教の重要語句を調べる、亦た、説ばしからずや。


もしクリスチャン作家の三浦綾子さんが生きていたら、ボクは迷わず、貝原益軒の五常訓を読ませたい。
新約聖書におけるイエスの言説と益軒の思想に何か違いがあるか聞きたい。
ボクから見れば、イエスは人間だし、仁者に他ならない。
別に、クリスチャンを批判しているわけではないが…。
ただ、イエスを唯一神と仰いでで信仰生活が出来ることがある意味、羨ましい。
ボクが今、取っている方法は儒の道で、探求生活だから…、ある意味、孤独だ。
宗教生活は繋がりがあって孤独ではないから。
しかし、三浦綾子さんのエッセイは読んでいて慰められる。
ボクも三浦さんのエッセイを読んで信仰生活に憧れた時がある。

今、悩んでいる人には、三浦綾子さんの自伝的エッセイは慰めとなるであろう。



二宮尊徳翁の思想の要は、人道である。
要は、人は人によって救われる。つまり、人が人を救うのである。
これが、仁政である。
これは、福祉国家の基本理念だと考える。

北欧ではキリスト教がバックボーンであり、東洋では儒教がそれであると思う。



ボクが影響を受けてる本に、二宮翁夜話があるが、これは尊徳翁が弟子に語った語録とされる。
しかし、どこまで尊徳の思想なのか疑問に思うところがある。記述した弟子の思想が反映されていないか?心配になる。
やはり、二宮翁自身が記した日記や書簡などと共に探求しなければならない。
二宮翁の思想は高尚なのだが、探求していく今が、ボクの今の使命なのかもしれない。

探求していく姿自身、学問に他ならない。まさに儒の道である。