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種なしと罵倒され続けた結果、自己弁護をする形で子供を作ってしまったような所もありましたが、当然の事ながら子育ての責任を、何も考えていなかったわけではありません。
子供を生み育てると言う責任。
愛情を傾ける責任。
そう言った責任を背負う決意も同時にしました。
思えば、辛い結婚生活でしたが、子供が妊娠、出産し、その後の数年間は、比較的落ち着いた幸せな一時だったと思います。
私も身重な前妻を気遣い、より家事を手伝ったりしましたし、日々大きくなるお腹に耳を当てて、胎動を聞いたりしました。
井深大著「胎児から」
なども読みまして、胎児の時から話しかけると良い事が分かると、積極的にお腹の中の赤ちゃんに話しかけるようにしました。
切迫流産。
と言う状態になりまして、前妻は入院を余儀なくされました。
妊娠4,5ヶ月頃から出産日まで、前妻はほとんどの時間を病室で過ごしました。
私は久しぶりの独身を満喫しました。
ですが、前妻は私に「オナニー禁止」を通告しました。
素直だった私は、その前妻との約束を守り、オナ禁していました。
今考えると、こう言った小さな夫のコントロールも、自己愛性人格障害者の、被害者の自由を奪う一つの行為だったのだと思います。
私は毎日、前妻の入院している病院に通いました。
前妻は個室が良いと我儘を言い出しましたので、途中から個室に移動しました。
ただ、個室に移動してからは、前妻から手や口でしてもらえましたので、性的処理の面では助かりましたが、毎月の支払は多大なものとなったのを記憶しています。
出産の時も色々とありました。
赤ちゃんの鼓動が急激に弱くなり、心音が聞こえなくなりました。
医者も原因が分からず、月足らずでしたが、緊急に薬を使って出産する事になりました。
この子の為に、自分の心臓を差し出しても良い。その位、まだ見ぬ赤ちゃんの事を愛していました。
私は立ち合い出産を希望し、生命の誕生の場面にそこにいる事が出来ました。
長男が生まれたこの日、私は生まれて一番感動した日だと言っても過言では無い、大きな幸せと感動に包まれました。
看護師たちも、切迫流産でしたし、突然の心臓の異常に、きっとこの子は流産してしまうだろうと考えていたようで、子供が誕生した時は、一緒になって喜んでくれました。
子育ても積極的にやりました。
夜中のミルクも、交代であげましたし、オムツを替えたりもしました。
長男は母親では無く、私が抱いていないと寝ない子だったので、幼い長男を寝かしつけるのは主に私の役目でした。
私が帰って来ると、座椅子に座った私が立膝をした所に、長男を寝かせ、両手で抑える形でテレビゲームをしました。
当時は野球のゲームを毎日していたのですが、応援の太鼓の音にあわせて、長男が腕をパタパタと嬉しそうに動かすのを見て、幸せな気持ちに包まれたのを記憶しています。
はじめて声を出して笑った日、ハイハイをした日、よちよち歩きが出来るようになった日、はじめて言葉を話した日、息子の甘いミルクの匂い、優しいふんわりとした空気に包まれているような、あたたかい穏やかな日々が続きました。
私はこの文章を書いていて、やはり長男の事を愛していた事を再確認しています。
私は今でも長男を愛している。
彼の為なら、自分の命ですらいらない。
昔も今もそう考えています。
しかし前妻は徐々に、息子だけに傾けられる私の愛情を、妬むようになります。
息子が憎い。
そこまでは考えなかったのかも知れませんが、徐々に息子に妬みの感情を培っていったのは間違いありません。
息子が3、4歳になる頃、前妻のDVがはじまりました。