マニア戦隊オタレンジャー+民主主義より自由主義 | アトラス塩浜のブログ

マニア戦隊オタレンジャー+民主主義より自由主義

12年ぶりに「レンジャー」封印 新戦隊は3人組の『特命戦隊ゴーバスターズ』
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1894158&media_id=54

マニア戦隊ヲタレンジャー

麻生太郎元総理や前原誠司民主党政調会長の口が曲がっているが、彼らも初当選直後の口はそれほど曲がっていない。
故・田中角栄総理も、口が曲がっていたが、初当選の頃はそれほどでもない。

やはり、政治家にはストレスがかかり、口が曲がるなどさまざまな影響が出るものなのだろうか。

などと思っていたら、どうも昨年末ころから、私の口の右上あたりが、ピクピクして気になる。
他人からは指摘されたことがないが、ピクピク動いているのが見えるのだろうか。

よく寝不足すると、目の上がピクピク動くが、他人には見えないようだ。
口の右上がピクピクするのが他人から見えるのかどうか、単純に興味あるので、会った人は教えてほしい。

私程度のストレスを国会議員の大政党の代表経験者のストレスと比べては申し訳ないが、それでも中々いろいろなことは起こるものである。
正直、私などより事務処理能力が上の人はザラにいると思うが、多分、たいていの人は、世界連邦の事務局長になったら、そのうちやめてしまうだろう。
そう思うと私もやめるにやめられない。

仮にこれから私の口がストレスで曲がったら、
マンガオタクの麻生太郎
鉄道オタクの前原誠司
アイドルオタクの塩浜修
でいい組み合わせだ。

ついでに口は曲がっていなくても、軍事オタクの石破茂、蝶オタクの鳩山邦夫も入れて、「マニア戦隊、ヲタレンジャー」
私は一番上でないとやっていけないので、オタレッドとしてリーダーになりたいが、他の4人もリーダーは譲るまい。
デルザー軍団のように各自が幹部ということで、では私はカレーが好きだから、オタイエロー。

あるいは、「女性がピンクという偏見をこわす」という政治目的で、私がオタピンクというのも良い。

マイミク申請は初めての人も気軽にどうぞ。



私は宿題をほとんど出さない。
小さいころから宿題というものが大嫌いだった。
たとえば中学1年生の時、アルファベットを大文字・小文字20回書いて提出するなどというばかな宿題が出た。なんというばかな宿題なのか。

私はとっくにアルファベットを全て覚えていた。その人間に無意味な作業をさせて何が面白いのか。5回書くと覚える人は5回書けばいいし、50回書かないと覚えられない人は50回書けば良い。どうして全員20回と一律にするのか。

こういう小中学生のころからの恨みもあり、私は基本的に宿題を出さない。
ところが、「個の自立」を重視する私の塾に来ていながら、次のような悲しいお願いをしてくる者もいる。
「先生、宿題を出してください」
「そこまで向上心があるなら、自分で計画を立てて勉強すればいいだろ」
「いや、宿題じゃないとついついやらないもので」
「それなら、自分で自分に課題を出せばいいじゃないか」
「いや、宿題じゃないとついついやらない」
「そこまで自分の弱さがわかっているなら、自分で自分に宿題を出し、終わるまでテレビを見ないとか、決めればいい」
「いや、宿題じゃないとついついやらない」
世代が違うが、こういう奴らのせいで、私までアルファベットを書かされたのか。く、くそう・・・などと、大昔のことを思い出して悔しくなる大人げない私。
「漢字だって見ただけで覚えられる人もいるし、5回書くと覚えられる人もいるし、10回書かないと覚えられない人もいる。それなのに全員に同じ宿題を出すのは間違っている。宿題は自分で自分に出せ」
と私は言い張っている。

さて、マイミクの中に「ここにいる塩浜さんは民主主義=命の人です」というように私を紹介してくれる人がいる。その一言でかなり雰囲気は掴めるし、主義や思想に殉じるという生き方はかっこいいと思っているので嬉しい。
ただし、正確に言うと、私は「民主主義よりも自由主義」である。

先ほどの例で、「宿題を出すべきか」と決を採れば「出すべき」という側が勝つかも知れない。
が、多数決という民主的な形で決めたからそれで良いのか。違う。
勉強というのは個人が自主的にやるべきものであり、自主性のない人間がたとえ多数決という民主的手続きを踏もうとも、自主性ある人間を巻き込んで道連れにすべきではない。

あるいは塾で「制服を定めるべきか」という議論をすると、毎年多数が「自由にすると何を着て良いか考えるのが面倒」などという理由で制服を支持するのである。
自由という状態は、現時点の制服も含むのである。そんなに私服を考えるのが面倒で制服を着つづけたいならば、自由になって制服が廃止されても現在の制服を着続ければ良い。
自主性のない人間が自由を愛する人間まで巻き沿いにするのはいい加減にしてほしい。
たとえ多数決をとろうがいかに民主的手続きを踏もうが、そんなことは許されるべきではない。

つまり、私は民主主義より自由主義なのである。
意に反して強制されるなんてことは最小限にすべきである。自由はなるたけ多く、政府だの権力はできるだけ小さくしたい。
が、そんな私ですら、政府や権力をゼロにしようとまでは思っていない。
政府とか権力という危険極まりない「必要悪」「劇薬」を用いる場合に、それをコントロールし、暴走を食い止めるための手段が民主主義なのである。
たとえれば、権力は番犬、番犬が暴れすぎないようにする鎖と首輪が民主主義である。番犬が守っている、もっと大事なものが自由である。

では、「ここにいる塩浜さんは民主主義=命の人です」という紹介はどうすべきかというと、このままでお願いします。民主主義より自由が大切なのだが、自由というと「利己主義」「自分さえ良ければ何でもやる」という意味だと誤解する人がいる。
塩浜学初心者には、とりあえず自由主義者・塩浜よりも民主主義者・塩浜の方がわかりやすくて良いだろう。自由と民主主義の関係は塩浜学上級コースで・・・。