深慮遠謀の覇王(徳川家康)・其の7 | テンカス・気まぐれ1人旅

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城をはじめ、名所、旧跡巡りが好きです。
最近は歴史にも興味があり、いろいろ調べ
気になった所をまとめ載せていきます。
よかったら覗いてみてください。

秀吉との争覇戦馬いて座



天正十年六月十四日、

家康は明智光秀を討って信長の

恨みを晴らすため、

軍兵を率いて岡崎城を出発した。


だが、十七日熱田にすすんだ時、

羽柴秀吉が光秀を討滅したことを知った。

この時家康の思惑通り光秀と

戦うことができたら、

おそらく家康の勝利となり、

家康の覇者としての路は

大きく開けたに違いない。


秀吉の余りに俊敏な行動は、

その絶好の機会を失わせてしまった。

光秀が誅に伏した以上、

家康としては兵を進める口実がない。




信長の死後、織田家中においてその

後継者選定について多くの問題が

起こってくるだろうことは予想されたが、

それは織田家内部だけの問題で、

家康が口を容れるべきことでは

ないのである。


家康は、信長死後の形勢がどうなるのか、

一応傍観する態度をとった。むろん、

その間、無為に過ごしたのではない。


ただちに甲州に兵を出して、

これを占領してしまった。

さらに信州に向かって手を伸ばすと、

北条氏直の派出した兵と

激突することになったが、

徳川勢の強剛ぶりに驚いた氏直は

家康に和を求め、甲州の両国は徳川領、

上州は北条領ということに協定した。


この間に、

秀吉は目覚ましい活躍ぶりを示している。

信長の後継ぎとして、

わずか二歳の三法氏(信長の嫡孫)をかつぎ上げ、

柴田勝家を亡ぼし、

大坂に壮大な城を築いて移り、

事実上信長の遺領のほとんどすべてを

手中に握ってしまったのだ。


信長の第二子信雄(のぶかつ)は、

こうした情勢に不満でたまらず、

家康に支援を求め、打倒秀吉の兵を

起こす決心を固めた。












人物探訪・日本の歴史(暁教育図書発刊・南条範夫氏執筆)