東京都文京区小石川に「切支丹屋敷跡」があります。
2014年にマンションを建てる前の発掘検査で、ここから3基の墓と3体の人骨が発見されました。
今回はこの発見にまつわるお話をご紹介していきたいと思います。
今から400年以上も前の禁教令下(1587~1873年)、最後に日本に渡航してきたジョヴァンニ・バティスタ・シドッティ神父は、1668年イタリアのシチリア島・パレルモの貴族の次男として生まれました。
シドッティはパレルモの神学校で学んだ後、ローマに渡りさらに学びを続けます。
32歳の時に日本の宣教についての報告を宣教師からされた後、ローマ教皇との会話の中で日本への宣教を願い出ました。
その後、ローマで日本語や文化について3年間学んだ後に、1703年にマニラに向けって出港します。
マニラで数年間神父として活動し、日本から禁教令で追放された人たちがすむ日本人街で日本渡航に必要なものを集め、1708年にいよいよ日本に向かって旅立ちました。
到着したところは、鹿児島県の屋久島でした。
島の南部には神父シドッチ上陸記念碑が建てられています。
記念碑の下の方には海が広がっていて、この辺りから上陸してきたのかな?と想像を掻き立てられます。
月代をそり、和服に身を包んで上陸しましたが、すぐに日本人らしからぬ風貌だったこと、言葉があまり通じなかったことから役人に捕らえられてしまいます。
捕らえられた後は、鹿児島に移されそこから長崎に移されました。
そこで本来であれば、禁教令のさなかに渡航してきた外国人宣教師であったため、棄教させるか処刑されることになるはずでしたが、時の将軍綱吉が麻疹で急死したため、次の将軍家宣の側近であった新井白石の希望により江戸に送られることになったようです。
江戸に到着した後、新井白石により4度尋問されました。
尋問をした後、新井白石は幕府に本国送還が望ましいと提案しますが、幕府は囚われの身のまま幽閉するという結論を出しました。
幽閉中、宣教をしないという条件でしたが祈祷書の所持なども認められ、身の回りのお世話をする人も付けられて、厚遇されたシドッティでした。
ところが、シドッティの身の回りのお世話をしていた長助とはるの老夫婦が、シドッティから洗礼を授けられたことが発覚し、3人とも地下牢へ入れられてしまうことに。
老夫婦が亡くなった後、1714年にシドッティも亡くなりました。
屋久島に到着してから6年後のこと、47歳の若さでした。
3人の遺体は切支丹屋敷の裏門近くに埋葬されました。
シドッティの死を知った新井白石は、尋問したことなどを元に「西洋紀聞」と「采覧異言」を書き上げました。
この「西洋紀聞」には、シドッティ神父がなぜ日本にやってくることになったかが書かれていて「昔の支那及びシャムにおいてキリスト教が、禁じられたが禁が解かれた。日本にも伝道師を派遣し、枢機卿を施設として派遣し友好関係を築けば布教できるのではと、いう判断に達した」とあります。
そしてキリスト教の布教のこと、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカのことなど世界情勢のことが書かれていて、これらの出版により、幕府の対外政策に大きな影響を与えることになりました。
シドッティの死からちょうど300年たったタイミングで、切支丹屋敷跡から冒頭にも記しました3基の墓と3人の人骨が発見されました。
この場所に埋葬されたのが3人。見つかったのは3人の人骨。
事情を知る人はシドッティと長助・はるの夫婦だと思ったことでしょう。
実際に1人はイタリア人のDNAを持っていたことで、ここで亡くなり埋葬されたシドッティ神父と老夫婦の遺骨の可能性が高いと発表されました。
DNA鑑定をされた方が、発見が10年も早ければ分析技術が及ばず、逆に遅ければDNAは破壊され鑑定は不可能だった、と語られたそうです。
300年という節目の年、これ以上ないタイミングでの発見だったそうです。