今回ご紹介していくのは、ユダの荒野です。

 

ユダの荒野は死海の西側に広がっている荒野で、ヘブライ語では「מדבר יהודה(ミドゥバル・イェフダ)」と呼びます。

英語だとJudean Desertです。

南北におよそ85km、東西に25kmの広さの荒野です。

ヘブライ語で砂漠や荒野を表す単語はいくつかありますが、このユダの荒野を表す「מדבר(ミドゥバル)」とは、年間の降水量が200mm以下で日中はとても暑くなる広大な地のことを指します。

 

木々の全く生えない地を表す「ערבה(アラヴァ)」や「ציה(ツィヤ)」とは違い、「מדבר(ミドゥバル)」は雨が降ると草木が生えてくる地のことを言います。

 

地中海から湿気を含んだ空気が流れ込んできますが、エルサレムなどイスラエル中央の高いところで雨を降らせてしまうので、湿気は山を越えてユダの荒野側には流れてきません。

そのため、エルサレムの東側ではあまり雨が降らなくなってしまうのです。

 

死海地方からエルサレムへ上っていく道もユダの荒野にあります。

死海は海抜マイナス400m以下で、エルサレムは標高800mありますので、標高差1200mほどあり、この道を上っていくと、ところどころに現在の標高を示しているところを見かけます。

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海抜-300m地点

-300mという標高はめったに見られません。

 

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海抜0m地点

ここの海抜0m地点には、観光用のラクダがいます。

このラクダはユダの荒野に住んでいるベドウィンと呼ばれる遊牧民族が毎日この海抜0m地点へ連れてきて商売しています。

ラクダに乗られる方、ラクダが立ち上がる時はかなり前傾姿勢になりますので、お気を付けください。

またラクダに乗る料金と降りる料金が別と言われることもありますので、ご注意を!

 

ベドウィンはイスラエルではユダの荒野やネゲブ砂漠など雨の少ない地域で、今でも動物の毛を編んで作ったテントに住み、ラクダや羊を飼いながら数千年も前からの生活様式を保っています。

ベドウィンの中には、テント内を観光用にオープンにしてベドウィンの食事やコーヒーなどを楽しませてくれるところもあります。

このコーヒーがカルダモンなど香辛料入りでなかなか味わい深いのです。

民族衣装を着てコーヒーを炒っているお兄さんと、奥のジーパンはいたお兄さんの対比が面白い

 

ユダの荒野の中にエリコへつながる細い道があり、そこに入っていくと、ワディ・ケルトと言われる渓谷のような場所があります。

以前はバスでもかろうじて行けるような場所だったのですが、今は諸事情があり行けなくなってしまいました。

このワディ・ケルトには、ユダの荒野の山々がきれいに見える展望台があります。

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展望台で小さな子供がお土産を売っていました。

 

展望台から500mほど離れたところへ行くと、谷の向こうに崖にへばりつくように建てられているセントジョージ修道院が見られます。

 そこからさらにエルサレムへ向かって上っていくと、マアレー・アドミーム(赤い坂)と呼ばれる場所に出ます。イスラエルの「赤坂」ですね。

土壌に酸化鉄を含んでいるため、地表が赤く見えるところから、この名前が付いたと言われています。

 昔はエルサレムに向かう道に盗賊などが出没して、巡礼者などを襲い血が流されることが多かったため赤くなったと、ユダヤの伝承は伝えています。

 

新約聖書のルカによる福音書10章30~37節にイエス様の話で有名な「よきサマリア人の宿」の遺跡があります。

 

サマリアについてはこちらのブログをお読みください。

イスラエル中部編 ~サマリア~

 

今でもサマリア人はイスラエルで生活していますが、よきサマリア人の宿に行くと現在のサマリア人の生活が写真で見ることができます。

 
この遺跡の中には、「良きサマリア人の教会」の跡があります。教会はビザンチンと十字軍の時代のものですが、良きサマリア人が盗賊に襲われて負傷した旅人を宿に泊めたという有名なイエスの譬え話から、その伝承により当時建てられたようです。
ここがその場所であるという確証はありませんが、2000年以上も前から、貯水槽がつくられていたので、本当にこの場所だったのかもしれませんね。
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いろいろな時代の貯水槽が発掘されていますので、ご紹介します。

第2神殿時代(紀元前516~紀元70年)の貯水槽

 

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ビザンチン時代(紀元313-636年)の貯水槽

 

十字軍時代(紀元1099-1291年)の貯水槽

 

と、長年にわたって使われていたことがわかります。

 

ユダの荒野は他にもたくさんの見所があります。

日本では味わえない、荒野を味わい見ることができるイスラエルへご一緒しませんか。