今回はシロの遺跡についてご案内いたします。
シロの町は、ベニヤミン族に与えられた土地の北の端にあり、エルサレムから北へ30㎞ほどの場所です。エルサレムからベテルやシケムを通って北上する「族長の道」と呼ばれる当時の主要街道沿いにある町でした。
聖書にも以下の通りにその場所が記されています。
“シロの町はベテルの北側、ベテルからシケムに通じる大路の東側、レボナの南側にあった。”(士師記21章19節)
アラブ人やトルコ人が一帯を統治した数百年の時代を通して、Khirbet Seilun(ヒルベット・セイルン=セイルン遺跡)という名前でもシロの名前が保存されていました。
さてその歴史に目を向けてみますと、エジプトを脱出したイスラエル民族がカナン入りしてから、ダビデによってエルサレムが都と定められるまで、200年以上(ヨシュア記、士師記、ルツ記の時代)にわたって会見の幕屋(神の箱)が置かれた場所で、諸部族をまとめる中心地として大変に重要な町でした。
この期間、聖書の中にはシロで行われたことがたくさんでてきます。
カナンへ入りが終わると、イスラエルの全会衆がシロに集まり、いまだ土地を受け取っていない7つの部族に対し、ヨシュアがくじを引いて土地を分け与えました。(ヨシュア記18章)
また、レビ人の家長たちは、シロにいる祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュアと、イスラエルの人々の部族の家長たちのもとに来て、「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるよう、モーセを通してお命じになりました」と申し出ました。(ヨシュア記21章)
「そうだ。年ごとにシロで主の祭りが行われる。」(ヨシュア記18章19節)や「エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。」(サムエル記上1章3節)という表現からも分かるように、神の箱が置かれていたシロは、イスラエルの民が毎年訪れる、巡礼地となっていました。
しかし時代が下ってくると、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれ」な時代になってきましたが、その時ここシロにサムエルという救国の預言者が現れます。サムエルが生まれるにあたっては、石女であった母ハンナの祈りと誓いの様子が記されています。
“シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」”(サムエル記上1章10-11節)
と神殿で激しく祈った母の祈りを通して、ハンナはサムエルを授かり、数年後、誓いの通り幼いわが子をシロの神殿の祭司エリに託しました。
出産後、サムエル記上2章に記されるハンナの祈りは、後にマリヤ賛歌(マグニフィカト)の原型になった、と言われる有名な祈りの歌です。
その後神殿で、幼いサムエルは「サムエルよ、サムエルよ」と神の呼び声を聞き、イスラエル全土を導く預言者へ成長していきました。
“主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。 主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。”(サムエル記上3章19-21節)
その後エベン・エゼルというところで、ペリシテ人との戦いがあった際に、イスラエルの民は勝利を願って神の箱を担ぎ出したのですが、イスラエル軍は大敗してしまい、祭司エリとその息子たちも死に、神の箱さえ奪われる事態になりました。
サムエル記にはシロが滅ぼされたことはハッキリ記されてはいませんが、実際には町も破壊されたようで、ここで大きな時代の節目を迎えることとなります。
後の預言者、エレミアは、
“シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい”(エレミヤ書第7章12節)
と記していて、町が破壊されている様子が想像されます。
さて、現在のシロは、1920年代から少しずつ発掘が始められましたが、イスラエル建国後1980年代に本格的な発掘作業が進められました。
私が最初にシロに行ったのは1980年代の半ば。当時はまだ城壁の一部が発掘されただけの、雑草に覆われ、アーモンドの木が植えられた丘陵だったのですが、駐車場の近くでガイドさんが「これ、恋なすびだよ」と教えてくれたことがありました。丸っこい、ナスと言われればそんな感じもする形の青い実がなっていました。ラケルがレアに求めた、というエピソードが創世記にありますが、受胎効果があると信じられていたようです。
なすびと言うので、畑で育てるのかな、くらいに思っていた私は、「へー、こんなところに生えているんだ」と妙に印象深く覚えています。
最近再びシロへ行くようになって、毎回その恋なすびを探してみますが、どうしても見つかりません。
ちなみに、別のところで見つけた恋なすびです。
上の写真は発掘現場のひとつ、下の写真の中の塔は、1階が考古学博物館、2階は映像を通してシロの歴史がわかるようになっています。
発掘を通して発見されたものの中で特筆すべきものは、シロにあった「会見の幕屋」(神の箱)のあった場所が特定されていることです。
石を削って長方形に掘られた場所が、ちょうど会見の幕屋の敷地くらいの大きさなのです。その大きさは、長さ100アモット(約50メートル)と幅50アモット(約25メートル)でした。
そして、その中に会見の幕屋が据えられていました。その大きさは長さ30アモット(約15メートル)、幅10アモット(約5メートル)、高さ10アモット(約5メートル)とされていました。
下の写真は模型ですが、柱で囲まれた部分が敷地の囲い(100アモット✕50アモット)、青っぽい箱型の建物が会見の幕屋(30アモット✕10アモット)、そしてスロープの付いた設備が犠牲を捧げるための祭壇でした。
上の2番目の写真は遺跡の北側の平たく開けた場所ですが、写真の右手手前の大きな石と左手奥の石の間が約25メートルあり、建物の部分がおおよそですが会見の幕屋があった部分です。
ハンナが祈りを捧げ、サムエルが声を聞いたのも、この辺だとということになると、急に聖書の人物が生き生きとしてきて、臨場感を感じます。
下記の写真は、布に印刷された当時の復元図を撮ったものです。薄い布のためか裏が透けているため少々見にくいですが、城壁で囲まれた当時の町の雰囲気はご理解いただけると思います。一番上、会見の幕屋は城外になったことが分かります。
その他、現物は博物館に収められていますが、神殿には欠かせない4つの角を持った石造りの祭壇が発見されたり、
ここがシロであったことを示す、ビザンチン時代の碑文が見つかったりしてます。
シロは滅ぼされ、祭司エリ一族も絶えますが、その中から唯一残ったアビヤタルという人物は、祭司としてダビデの逃亡時代から終生彼を支えました。ところがダビデの息子ソロモンが即位する際に、別人物(長男アドニヤ)を支持したため、アナトテへ追放され大祭司の職権を剥奪されます。
アナトテの祭司は、祭司でありながら神殿に仕えることがないというユニークな、というか祭司として干されていたわけですが、私の勝手な想像ながら、シロで起こったことを子々孫々語り継いで、戒めとしていたのではないかと思います。
そしてその中から、王国時代の終盤(紀元前7-6世紀)になると、エレミヤという預言者を輩出することになります。エレミヤの預言の中には、アーモンドの木や煮え立った鍋は出てきても、神殿の様子が描かれてないのは、偶然ではありませんでした。
皆さんも是非一度シロへ行ってみませんか。