シリーズで投稿している「イスラエル中部編」もついにエルサレム郊外までたどり着きました!


今回ご紹介するサムエルの墓は、エルサレムの北西8km、標高885mの高台に位置しています。

そのため、遠くからもよく見ることができます。

(エルサレムの幹線道路から見たサムエルの墓)

 

現地では、サムエルの墓のことを「ナビー・サムエル(預言者サムエル)」というアラビア語で呼ばれていることが多いようです。以前タクシーに乗ってここへ行ったときもやはりそのように伝えたほうがすぐに分かってもらえました。

 

このサムエルは、旧約聖書に登場し、イスラエルの初代の王サウルやダビデなどに油を注いだ預言者サムエルです。

(サムエル記上9~16章)

 

そのためサムエルはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、3つの宗教にとってとても重要な人物とされています。

何故この場所が「サムエルの墓」として定められたのか、そのいきさつははっきりとしていないようですが、初代キリスト教徒の伝承がきっかけとなり、紀元5世紀ごろのビザンチン時代には預言者サムエルを記念する大きな教会が、ユスティニアヌス帝によって建てられました。その後、十字軍時代には教会が要塞化され、大規模な建物が建てられましたが、当時ここを神の契約の箱が安置されていたシロ神殿の跡と考えられていたためだ、と言われています。この十字軍がヨーロッパから派遣されたとき、またそのころの巡礼者がこの高台に建って初めてエルサレムが見られたところから、「喜びの山」と呼ばれるようにもなりました。

預言者サムエルが登場し、行くことが多かったのが「ラマ」と呼ばれる場所です。ラマというのはヘブライ語で「高い場所」という意味があり、サムエルの墓の場所がそれだったとされています。南側のすぐのところにはラモットというベッドタウンがあり、サムエルの墓の手前に位置していますが、ラマの複数形なので、関連があるのかもしれません。

 

“さてサムエルが死んだので、イスラエルの人々はみな集まって、彼のためにひじょうに悲しみ、ラマにあるその家に彼を葬った”

(サムエル記上25章1節)

 

“その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが呼ばわると、主は答えられた”

(詩篇99篇6節)

 

(サムエルの墓)

この場所へ来ると預言者サムエルがいかにユダヤ教の中で重要な人物の1人として扱われているのがよく分かります。

歴史的にも様々な時代のものが見られる考古学の宝庫のような遺跡にもなっていますが、特に祈りの場となっているお墓の開閉時間は他の場所とは全く違ったスケジュールとなっています。

基本的には年中無休でオープンしています。

日から水曜日;日の出の1時間前にオープン、夜10時半ごろにクローズ

木、金曜日;日の出の1時間前にオープン、日没の1時間前にクローズ

土曜日や祝日;日の出の1時間前にオープン、夜11時にクローズ

という感じです。

 

ちなみに、お墓以外の遺跡関連の場所は朝8時〜夕方の17時までで、冬時間になると16時までです。

ただ、お墓のオープン時間が少々長いため、遺跡のクローズ時間が過ぎても入場できます。通常の観光地や遺跡では時間を過ぎると全く入れてもらえず、時にはクローズ時間の前に到着してもその後の見学時間を計算され、門前払いという状況になってしまいます。ここでは誰でも来てお祈りができる環境ということもあり、遅い時間に着いても入場できました。

 

建物はイスラム教のモスクとして18世紀に建てられたものが現存していますが、その中にはこのようなお墓があり、今でも熱心にお祈りが捧げられています。

このように超正統派のユダヤ教徒が顔を伏せて祈る姿が印象的でした。

こちらは2018年に訪問した際に撮った写真ですが、比較的多くの人が祈りに来ていました。お墓のベールも青色でした。

紀元前2世紀ごろにこの地域を支配していたハスモン王朝時代の貯水池跡です。紀元12世紀の十字軍時代まで使用されていました。

かなり広い貯水池だったということが分かります。

ミクヴェ(沐浴所)として使用されていたところも発見されています。

 

サムエルの墓を守るようにして建てられている建物の屋上は展望台にもなっていて、周囲を見渡すことができます。

先ず北側から。

遠くの街はパレスチナ自治区の首都となっているラマラです。その手前にはエルジブ村があります。ここはサウルの将軍アブネルとダビデの将軍ヨアブが対峙したギブオンの池(貯水池)が今でも残っています。

“ネルの子アブネル、およびサウルの子イシボセテの家来たちはマハナイムを出てギベオンへ行った。ゼルヤの子ヨアブとダビデの家来たちも出ていって、ギベオンの池のそばで彼らと出会い、一方は池のこちら側に、一方は池のあちら側にすわった”

(サムエル記下2章12-17)

 

この貯水池にはらせん階段があり、下のほうにも行けるようになっています。

(ギブオンの池)

 

東側には、1967年までヨルダン王国が東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を治めていましたが、六日戦争(第3次中東戦争)後、イスラエルの領地となり、その戦争の前に建設が始まったばかりで未完成のままになった故フセイン国王の別荘も見ることができます。ちなみにここはギブアと呼ばれ、サウル王の出身地だったところです。サウルのころはエルサレムには大きな町はなく、エブス人が住んでいた土地でした。ギブアは高き所という意味があるくらい見晴らしがよかったので、ここが選ばれたのかもしれません。

さらに晴れた日にはヨルダンの山々も見ることができます。

(未完成のまま廃墟となったギブアにある建物)

 

南側には、エルサレムの街並みもよく見えます。

手前にラモット地区があり、その奥に広がっているのがエルサレムの町です。

 

このように、喜びの山と呼ばれたサムエルの墓からは様々な聖書の舞台が見ることができます。

イスラエルが平穏になったときには、再びこの場所からエルサレムや周囲の景色を眺めながら、古の預言者たちや聖書を感じたいものです。