今回は伊達政宗の時代(16世紀後半~17世紀前半)に、東北の2大キリシタンと呼ばれた「支倉常長(はせくら つねなが)」と「後藤寿庵(ごとう じゅあん)」の2人をご紹介をしたいと思います。

 

東北のキリシタンとして有名なのは、歴史の授業でも習った方も多いかと思いますが、伊達政宗の家来であった支倉常長でしょう。

支倉常長像

 

支倉与市六右衛門常長は、1571年(元亀2年)に山口常成の子として生まれ、後に叔父の支倉時正の養子となります。

その後、慶長遣欧使節に出発するまでのことは、あまり知られていません。

 

1613年10月28日(慶長18年9月15日)、政宗の命により石巻の月の浦港より、サン・ファン・ヴァウティスタ号にてメキシコ経由でスペイン・ローマへ出港しました。

 

月の浦港と支倉常長像

 

 

サン・ファン・ヴァウティスタ号(宮城県慶長使節ミュージアムサンファン館)

 

慶長遣欧使節の目的は、スペインの国王にメキシコとの貿易の許可を得ることと、ローマ法王に仙台領内での布教のために宣教師を派遣してほしいとお願いすることでした。

 

サン・ファン・ヴァウティスタ号は最初にメキシコに到着し、メキシコからスペインへスペイン艦隊に便乗して、初めて日本人が大西洋を渡りました。

 

スペインのマドリッドに到着した一行は、1615年1月、フェリペ三世スペイン国王に謁見し、伊達政宗の書状を渡し宣教師の派遣とメキシコとの貿易の希望があることを伝えます。

その後、国王列席のもと王立教会で洗礼を受け、国王と成人の名前を関した洗礼名「ドン・フィリポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」と付けられます。

 

マドリッドからバルセロナを経て、1615年11月にローマのバチカンでローマ法王パウロ5世と謁見しました。

 

その際、「ローマ市公民権証書」を授かります。

羊皮紙を用い、上部左右に紋章が描かれ、左上に支倉家の紋章も描かれたもので、本文はラテン語で、ローマ市議会で「フィリポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」にローマ市民の権利を与え、貴族に加えるということが金泥と呼ばれる金粉を膠で溶いたもので書かれています。

この「ローマ市公民権証書」をこちらにアップしたかったのですが、諸事情でできないため、仙台市博物館のサイトをちょっとのぞいてみてください。

 

 
ローマ市民権というと、新約聖書にも出てきますね。
使徒言行録の22章25~29節のパウロが市民権を持っていたことを話す場面です。
『パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」 これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」 千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。』
2千年前のローマ帝国時代だけだったのかと思っていましたが、今から400年前にもローマ市民権というものがあったのですね。
 

話はローマ市民権から支倉常長に戻ります。

ローマ法王は宣教師の派遣には同意してくれましたが、貿易はスペイン国王に任せるとのことで、スペインに戻り国王と再び会って、貿易をお願いするのですが、支倉常長が伊達政宗から遣わされていて、正式な日本の使節でないこと、日本ではキリスト教が弾圧されていることを理由に、許可されず帰路に就くことになってしまいました。

 

失意の中帰国しますが、帰国するとさらに追い打ちをかけるように、仙台藩は労をねぎらうどころか、冷たく出迎えます。

7年間の間に徳川家の体制下に置かれるようになり、正宗にとって常長の帰国というのは迷惑なことになっていました。

 

常長はその後、表舞台に出てくることはなく、その墓所もはっきりしていません。

 

もう少し、政宗や常長が早い時代に生まれていたら、違う世の中になっていたかもしれません。

 

 

もう一人のキリシタンは後藤寿庵と言います。

常長と同じ時代に活躍したキリシタンです。

 

後藤寿庵像

 

あまり名前を聞いたことのない方も多いかもしれません。

 

後藤寿庵の出生も亡くなったところも、あまりわかっていません。

一説には、1577年(天正5年)~1638年(寛永15年)ころに活躍した人物で、東磐井郡藤沢城主、岩渕近江守秀信の次男として誕生したされています。

豊臣秀吉の小田原攻めに不参加だったため家が取り壊しにされたため、諸国を流浪し西洋文化や思想を学びました。

長崎の五島で洗礼を受けて、ジョアン(ヨハネの意)の洗礼名をつけられて、後藤寿庵と名のるようになったといわれています。

 

伊達政宗によって見分(みわけ)(現岩手県奥州市)の領主として任ぜられ、ここを居所としました。

 

ヨーロッパの当時の資料の中には、イエズス会年報中に見分に領地を持ち布教の拠点となっていたことや、ソテロの「使節紀行」という口述筆記中にもみちのくに小聖堂が4か所あり、そのうちの一つが「ゴトウ領地の見分」にあったと記されていました。

イエズス会の日本管区長が日本各地のキリシタンから集めた証文の中では、証文の筆頭に署名していて、またローマ法王へ送った奉答文でも筆頭に署名していることから地位の高い、中心人物だとみられます。
 

この後藤寿庵は治水のプロでもありました。

水田の開拓や「寿庵堰」といわれる用水路の工事を私財で手がけました。

完成までには至りませんでしたが、その後、完成した用水路は今でも近隣の水田を潤し続けています。

寿庵堰

 

この用水路にかかっている橋に1枚のプレートがあります。

ちょっと読みにくいですが、「壽安徳水」と書かれています。

 

このような人物でしたが、日本側の資料では仙台藩の藩士であったこと、キリシタン武士だったということくらいしか残っていません。

 

岩手県奥州市には、寿庵の足跡をたどると地元の方々に尊敬されていることがわかる史跡がたくさんあります。

水沢カトリック教会には後藤寿庵の像とその中に記念ホールとして寿庵に関する案内などがあります。

 

町の中の地図や案内の中にも「後藤寿庵」の名前がたびたび登場します。

福原の北町内会の地図には「福原と後藤寿庵は切り離すことはできない」と書かれており、この地図の中だけでも寿庵に関係のある、毘沙門堂、後藤寿庵廟などがあります。

 

毘沙門堂は一見関係なさそうですが、「バンテーレイモン」と呼ばれていて、これは「伴天連」が転訛したものだそうです。この辺の家の屋根裏からキリシタンのメダイ(メダル)が発見されていて、キリシタンには縁の深い土地になっています。

 

後藤寿庵館跡ですが、一時期は荒れ果てていましたが、地元の方々がここを整備し、現在は福原農村公園となっています。

後世に残したい場所を公園とするのは、ステキですね。

 

後藤寿庵廟と呼ばれ、大事にされているところもありました。

この廟の案内文は昭和6年に書かれたものが埋め込まれており、長く地元の方々に尊敬されている寿庵の姿が偲ばれます。

 

前述の支倉常長がローマに行っているころに、仙台藩内でもキリシタンへの迫害が強くなってきました。

もともと伊達政宗は、豊臣、徳川に代わって日本統一を夢見ていた武将ですので、キリスト教の布教を許し、遣欧使節などを通して貿易をし、仙台藩を強くしたい願いがありました。

それが願うようにならなくなり、徳川の政策であるキリシタンへの迫害へと舵を切らざるを得なくなってしまいました。

 

その結果、二大キリシタンと呼ばれた支倉常長、後藤寿庵は亡くなった場所や日時も知られない最期を迎えることになってしまいました。

寂しいことではありますが、戦国時代から徳川時代にわたりキリシタンとして激しく生き、また亡くなっていったお二人を忘れてはならないと思います。

 

ぜひ、この2大キリシタンの里をご一緒に旅することができればと思います。