大浦天主堂は我が国の国宝であり、また、2018年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつです。

 

すぐそばにはグラバー園があり、通常では、観光客のにぎわう一角です。

普段、大浦天主堂を訪れますと、修学旅行と思われる小・中学生の団体によく出会います。

みんな一生懸命ガイドさんの話を聞いたり、お互いで調べてきたことをガイドし合ったりして、ほほえましくなります。

 

 

ここに見学に来られる方は、正面の階段を上がり、まっすぐに教会堂の中に入っていきます。

私たちのツアーでは、すぐには教会には入らず、階段を半分くらい上った、左手にある広場に入ります。

広場の奥には石像があります。

 

鎖国は終わったものの、まだ禁教令中だった日本・長崎にやって来た、フランス人のプチジャン神父像です。

 

1549年、聖フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられた後、1587年、豊臣秀吉による伴天連追放令発令があり、1597年に26聖人が長崎の西坂で殉教します。

1612年、江戸幕府により直轄地へ、1614年に全国へ禁教令が発令され、日本の地に宣教師・神父がいなくなります。

いなくなってからも、表向きは神社の氏子やお寺の檀家として家には神棚や仏壇がおかれていましたが、ウラではキリスト教を隠れてでもずっと信仰し続けます。

このように信仰を守り続けた方のことを「潜伏キリシタン」といいます。

 

「隠れキリシタン」とは、明治になり1873年にキリシタン禁制の高札が取り除かれ、禁教令が解かれた後に、宣教師によって再度伝えられたキリスト教と、自分たちが守り続けてきた信仰との違いに、250年間先祖が守ってきた信仰を捨てられずにカトリックにはならず、同じ信仰を続けた方々の事を言います。

 

1853年、1854年のペリーの来航により、国が開かれ、踏み絵も行われなくなりましたが、禁教令は続きました。

鎖国が解かれ外国人が日本に住むようになり、住んでいる外国人のためにミサを行う目的で神父さんも来日されるようになりますが、日本人への宣教はいまだ禁止されていました。

 

日本に住むカトリックの信徒のために1863年に来日した、フランスのプチジャン神父は、最初、26聖人が殉教した西坂に教会を建てたいと願いましたが、どこにでも教会を建てることは許されていませんでした。許されていたのはは、外国人が住む「居留地」と呼ばれるところだけでした。

 

長崎は鎖国中でも、唯一幕府が貿易を行っていた町で、南山手と呼ばれるところに外国人居留地がありました。

そこには、すでにイギリス人商人のトーマス・グラバーの住まいがありましたが、教会用にその一角を寄贈しました。

この地に南蛮寺として1865年2月に建てられたのが大浦天主堂、正式名称は「日本二十六聖殉教者聖堂」といい、26聖人に捧げられた教会です。

 

プチジャン像から再び協会に目を向けると、手前の大きなレリーフが目に留まります。

 



一人の神父が両手を広げて立ち、手前の女性はひざまずき祈っています。

 

プチジャン神父は来日し、長崎の外国人にミサを行っていましたが、この近くに信仰を持っている信徒がいるはずだと、探していましたが、なかなか出会うことができませんでした。

一方、隠れて信仰し続けていた浦上の信徒は、ある言い伝えに希望を持ち、その時を待ち続けていました。

それは、「七代たつと神父様がローマ教皇から遣わされていらっしゃる。その神父様は、独身で、サンタ・マリアのご像を持って来られる」というものでした。
南山手に天主堂ができたことを聞いた浦上の信徒がこの大浦天主堂にやって来て、プチジャン神父に「わたしの胸、あなたの胸と同じです。サンタ・マリアのご像はどこ?」と、神父にたずねたと案内には書いてあります。

 

聖母の騎士社刊の「長崎オラショの旅(小崎登明著)」には、この瞬間のことを、このようなやり取りがあったのではないか、と以下のように書いています。

 「あなたはどちらから来られましたか」

 「私はパパ様(ローマ教皇)から遣わされて、ローマから来ました」

 「ローマのおかしら様のお名前は何と申しますか」

 「ピオ9世と申します」

 「あなたの奥様にご挨拶したい」

 「私に奥さんはおりません」

 「お国に置いてきているのでしょう」

 「いいえ、私は独身です」

 「それならサンタ・マリアのご像はどこにありますか」

 

この最後の言葉を口にするのに、どんなに思いが込められていたかと思うと、胸が熱くなります。

 

神様に感謝しながら、喜びいっぱいに信徒を聖母マリアの像前に案内した瞬間が、教会の左手前の広場にレリーフで表現されています。

天主堂が完成した1か月後の1865年3月17日のことでした。
 

プチジャン神父にとって待ちに待った瞬間でしたが、それ以上に250年の間、言い伝えを信じ、信徒の祈りながら待ち続けてきた神父様でした。
一般には「信徒発見」とされていますが、この呼称は教会側・神父側からのもので、ずっと祈り続けてきた信徒の側にとっては「神父発見」だったわけです。

世界のキリシタン史上、類を見ない奇跡ともいわれた「信徒・神父発見」です。

 

このように両者にとって、待ち続けていた時が来たこのことは、大きな感激、喜びだったに違いありません。

2015年3月17日は、この感動の出会いから150年の時でした。

150年を記念し、このレリーフの前にはたくさんの信徒が集まり、祈りがささげられました。

 

嬉しいお互いの出会いだったわけですが、この話にはつらい続きもあります。

浦上の信徒は言い伝えられてきた伝承が真実だったと、大きな喜びの中にありましたが、ある葬儀をお坊さんに知らせず、葬儀を自分たちで行ってしまい、さらに信徒がお寺と縁を切りたいと申し出てしまったことが大問題となりました。まだ禁教令が続いていたため、浦上の信徒の詮索が始まり、信徒とみられた人たちがたくさん捕らえられ、1867年に浦上4番崩れといわれる、迫害がおこりました。

この迫害で、浦上の信徒3280人が日本の各地に流罪とされ、浦上から追い出され多くの方が獄死しています。

 

この最後の迫害ともいわれた浦上4番崩れのことが諸外国に伝わり、明治政府は非難され、ようやく1873年になってキリシタン禁制の高札が取り下ろされました。

豊臣秀吉の時代から数えると286年もの間続いたことになります。

 

一般の大浦天主堂観光では、ほとんど目にとめられることがない小さな中庭ですが、日本のキリスト教史上に、忘れてはならない場所と思います。この歴史の上に、今の時代があるのだと思うと、一度はこの長崎の地に立ち歴史をかみしめることの大事さを思います。

 

弊社ではこの大浦天主堂を含めた「長崎・五島・平戸キリシタンの旅」を企画しています。

 

 

ぜひ、ご一緒に長崎の地を訪れてみませんか。