山陽道 №66(片上宿~伊部)
このブログは「緊急事態宣言」が発令される前に行動したものです。
前回、大福で昼食という羽目になりましたが、気を取り直してさらに片上宿を進みます。
「アルファ・ビゼン」という大きな商業施設があったが、ひなめぐりの展示はしているものの営業していなかった。
西片上駅周辺はシャッター商店街となりつつあります。
「恵美須屋跡」
商店街というのに人通りもなく閑散としています。
アルファ・ビゼンの一角に「片上脇本陣跡」があります。
片上宿の西端までやって来ました。
片上宿の西端から山陽道は、道標の「左大坂」に従って茶臼山山麓に沿って進みます。
この「大坂」は大阪ではありません。おそらく「大きい坂」という意味でしょう。
大坂に差し掛かると「葛坂峠」「お夏茶屋跡・お夏の墓」を示している道標がありました。
坂の上り口 右手の明神社に手を合わせ先へ進むと何やら遠くに立札が見えます。
近くに寄ってみると「前川哲蔵の墓標」とあります。
「岡山藩筆頭家老の御目見医 文久二年北之町にて死す」と書かれています。さらに
「宇佐八幡宮へ伊部焼の狛犬と玉垣を寄贈す」とあるので、前回見たあの備前焼の狛犬を寄贈したのは前川哲蔵さんでした。
前川哲蔵の墓標のすぐ上に「悲恋の灯花・お夏の墓」があります。
お夏の墓地には色々並んでいます。
お夏清十郎事件は伝承によと、姫路城下の旅籠の大店・但馬屋の娘・お夏と恋仲になった手代・清十郎と駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまいました。
清十郎はお夏をかどわかし、店の金を持ち逃げした罪で打ち首になりました。
お夏は狂乱して行方をくらませてしまいました。
そのお夏が西片上に逃れ、この葛坂峠で茶屋を開き、暮らしていたというのです。
この話は、井原西鶴の『浮世草子・好色五人女』に書かれ、その後、近松門左衛門によって人形浄瑠璃に仕立て上げられ世に知られるようになりました。
お夏の墓はここだけでなく、姫路市の慶雲寺、貝塚市の水間寺でも見たことがあります。
『 逃れ来て お夏の心 安んじる 』
師匠の川柳は・・・
『 評判の 美形悲恋が よく似合う 』・・・となりました。
お夏の墓をあとに、大坂を上ります。
坂の途中に「中国九平戦死之碑」があります。
中国九平「Who」・・・???
葛坂峠に差し掛かりました。
峠に「お夏茶屋跡」がありました。
看板によると、 お夏は天性の美貌で茶屋は随分はやったとあります。
茶屋跡の脇に、東京国立大劇場で演じられたという「お夏の茶屋」の清元が掲げられています。
葛坂峠に「御地蔵様参道」の矢印があったが、お地蔵さまは分からずじまいでした。
葛坂峠は国道2号線に向かって下って行きます。
「備前焼夢玄庵」の前で国道に合流します。
左に焼物用の薪が整然と積まれていました。
「夢玄庵」に「いらっしゃいませ」と書いているので、入らない訳にはいかないでしょう。
館内は綺麗なギャラリーになっていて、備前焼がずらり。
「土ひねり陶芸体験」が出来ますが、残念ながらそんな暇はありません。
『 土ひねり 手足をひねり 首ひねる 』
師匠の川柳は・・・
『 釉薬の 垂れに風雅を 感じ取る 』・・・となりました。
しばらく国道2号線を歩きます。
すぐ先に「伊部一里塚跡」がありました。
伊部東交差点から斜め右へ旧山陽道へ入って行きます。
左へ行くと「伊部駅・備前焼伝統産業会館・備前陶芸美術館」、右へ行くと「天津神社・天保窯史跡・備前焼本通り」へ続きます。
伊部東集落に入りました。
ここから先が「備前焼の古里」になります。
「備前焼」は、日本六古窯の一つで、別名「伊部焼」とも言われています。
古民家レストラン「衆楽館」の名物は“備前カレー”です。
衆楽館の本館は備前焼です。
備前焼本通りに入ると「天津神社」があります。
路地を進みます。
街中至る所 備前焼です。
灯籠も御前焼きです。
三代目藤田龍峰の看板は趣がありますね。
ショーウインドには「侘」「寂」を感じる渋すぎる壺が・・・「備前焼伝統工芸士」の認定書もしっかりと飾られています。
「橋本画廊」をちょっと覗いてみましょう。
表に飾られている器も見事なグラデーションで焼きあがっています。
館内も広くて二階まであります。
備前焼は釉薬を使わないそうですが、焼きあがるとさまざまな色や模様がつきます。
これは、長時間じっくり焼き締めている間に、粘土に含まれる金属成分が変化したり、窯の中の温度や松割木の灰、窯入れの際に入れた藁などが、作品と重なりあって現れるのだそうです。
並んでいる器は一見高そうですが、一個800円~1800円の値が付いていますのでこれなら買えそうですが、荷物になるのでやめました。
天津神社の門前に出ました。
「てんしん」ではなく「あまつ」です。
鳥居前の狛犬もこれまですっかり見慣れてしまった備前焼です。
天津神社の由緒書によると、応永18年(1411)以前の創建で、昔は浦伊部にあったが、御神託により、天正7年(1579)に現在地に遷宮されたとあります。
灯籠の台座にとって付けたような「備前焼の里伊部天津神社」の赤字札が・・・ちょっと悪趣味です。
神門の瓦も備前焼です。
壁も備前焼です。
狛犬のレリーフも備前焼です。
長い石段の上には「第二神門」が構えています。
第二神門の屋根には、玉に乗った狛犬が躍動しています。
坂の途中の塀にも備前焼の陶板がはめ込まれています。
祭神は少彦名命です。
参道にも備前焼が敷き詰められていました。
本殿は延宝6年(1678)の建築で、蟇股、虹梁、木鼻の繰形が特にすばらしい流れ造りで、江戸前期の一間社としては例がないとあります。
稲荷社の狐も備前焼です。
十二支も備前焼です。 12体ありますが以下省略します。
『 天津神 どこもかしこも 備前焼 』
師匠の川柳は・・・
『 ひび割れも 景色に愛でる 備前焼 』・・・やっぱり師匠の足元にも及びません。
天津神社をあとに街道に出ると「陶蔵」の建物が目を引きます。
備前焼の店はまだまだ続くようですね。
次回はつぎの土曜日 「伊部~香登駅」へつづく