中山道№92 宮ノ越駅~出尻一里塚跡
「思いがけずの木曽駒ヶ岳」
夕べは食事中に気分が悪くなり、食事もそこそこに寝てしまったが、今朝起きてみると、不思議なことに気分爽快。
鬼のかく乱とでも言っておきましょうか
腹が減っていたので朝飯の美味い事うまいこと・・・
奈良井発の始発電車は7時14分、その次が8時41分、さらにその先は11時20分という、チョー不便な所です。
選択肢は8時41分のみです。
奈良井駅から再び宮ノ越駅へ戻って来た。
義仲橋、寺橋と木曽川に架かる橋を右に見て宮ノ越宿を進む。
広重は、子供をおぶった男と懐に赤子を抱きかかえた女、そして手荷物をもった三人組が何処へ行くのか木曽川に架かる橋を渡る様子を描いている。
寺橋の先に「本陣跡」があった。
バス停の名前も本陣前となっている。
横には「明治天皇御小休之跡」の碑も並んでいる。
箱庭のような本陣跡コーナーも設けられていた。
100m先が「脇本陣問屋跡」になる。
元旅籠「田中家」や「若狭屋」といった旧家が並ぶ。
宿内には「明治天皇宮ノ越御膳水」の井戸があり、『昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活を支えてきた。明治13年6月、明治天皇中山道ご巡幸のみぎり旧本陣にお小休みされた際この井戸水をもってお茶を献上した』とある。
軒下に昔の屋号を掲げている民家も見受けられる。
下町会館の敷地に近郷から集めてきたのでしょうか沢山の石仏石塔があった。
宿場を出て700mほど行くと、日本橋から数えて68里目となる「宮ノ越一里塚跡」があった。
街道は見通しの良い明るい地形に変り、歩いていて気持ちが良い。
右手に木曽町日義の体育館や運動場を見て「第5中仙道踏切」を渡ると松沢地区に入る。
正面に「木曽駒ヶ岳」「麦草岳」が見える。
木曽谷からは見えないと思っていたので予想外のプレゼントをもらった。
道端でお話し中の奥さんに聞いたら駒ヶ岳だということは確認できた。
その昔、伊那側から冬の駒ヶ岳に登ったことがあるが、木曽側から見るのは初めてである。
原野駅近くまで来ると「原野間の宿」の面影が少しは感じられる街並みになっきた。
石仏石塔群を左に見て無佐澤川に架かる無佐澤橋を渡ると、さらに数多くの石仏石塔群が並んでいた。
土手の上のほうは墓場のようである。
明星岩公園まで来ると右手の山の中腹に大きな三角の岩が見える。
その昔、木曽駒高原の濃ヶ池が決壊した際に転がってきたといわれる「明星岩」である。
すぐ先に「中山道中間点」の説明板があった。
江戸・京都双方から67里28町と書かれている。
換算すると約267kmになる。
山越え谷越え、ずいぶん歩いて来たがまだ半分残っている。
バックの木曽駒ヶ岳も頑張れと応援してくれているような気がして、足元の水神様にも旅の無事をお願いした。
400mほど行くと県道267号線から一段下った正沢川旧道に入る。
脇に道祖神の抱えた名も知れぬ小さな神社を左に見て、先の十字路を直進すると正面に小沢センターがある。
ここから左へ進路をとると街道は砂利道・草道と変わり、これで合っているのかと心配になるが、所々に道標があるので迷う事は無い。
ドラム缶橋を越え樹林の中を歩いていると、正沢川せせらぎが心地よくハイキング気分になる。
川渕を進むと鉄の橋が見えてきた。
橋のたもとまで来ると、なんとこの橋はグレーチング橋で、足元から泡立つ川の流れが良く見える。
この橋を渡ると木曽福島町になる。
木曽町で見たマンホール
すぐ先で天神川に架かる天神橋を渡ると「二十三夜搭」「庚申塔」「薬師堂」が並ぶ。
つづいて木曽義仲ゆかりの「手習天神」がある。
木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神様として勧進したものと伝わる。
石塔群を左に見て上田のバス停から先へ進みY字路を右に進むと「中山道ウォーキングの方へ」という標識があり、この先道が無くなっていて危険だから迂回するようにと書かれていた。
迂回路は国道19号線の下をくぐり国道に出る道だった。
国道脇に「出尻一里塚跡」がある。
日本橋から数えて69里目である。
中山道が名古屋へつづく訳ではないが、名古屋まで140kmと標識にあった。
次回は明後日 「経塚」へつづく