5月17日。
前回、西赤石山に登ってからほんの2週間。
山奥の遺構と自然にすっかり魅せられちゃって、前回とは反対の登山口から登りました。
銅山の山をぐるっと南にまわった日浦登山口からは、元禄時代から大正5年まで225年間の産業遺産が残ってます。
頼み寺跡や、労働者や商人の集落跡。
新緑の中、痕跡を見ながら銅山川の支流・小足谷川に架かる橋を右へ左へ。
趣のある塀が残る接待館跡。
明治になって各界の要人が別子銅山に目を向けるようになり、迎えるために建てられました。
最盛期には生徒数が300人近かった小学校跡。
土木課や山林課があった場所。
350坪もある倉庫を、別子銅山200年祭には劇場として歌舞伎役者が招かれたそうです。
そんな場所のすぐ近くに、ガスを出し続けた洗練所跡がありました。
旧別子山村の明治の最盛期の人口は、当時、松山市に次ぐ県内2位の1万2千人超。
その生活と産業の跡が、役目を終えて100年程で遺跡となってます。
絶えなく水が噴き出す、東屋やベンチが置かれた広場でちょっと休憩。
新たな鉱床を探す掘削中に水脈にあたり湧き出した水で、地中に残るドリルの先端にダイヤモンドが散りばめられていることから、‘’ダイヤモンド水‘’と呼ばれています。
あおあおと、キレンゲショウマの葉が並んでいる山の中のオアシス。
地中深くから溢れる水はとても冷たかったです。
登山道からちょっと寄り道して第一通洞を見に行きました。
標高1100m地点にあって南北に延びる長さは1010m。
明治19年(1886年)に、北にある現在の銅山峰ヒュッテの近くまで貫通し、標高1294mの銅山越を越えなくても輸送が出来るようになりました。
明治期の坑口は、要石で構造を保つアーチ型↑。
そこから少し標高を上げ、元禄4年(1691年)に採鉱を開始した別子銅山最初の坑道。
開鉱を抱き合って歓喜し祝ったことから歓喜坑という名前です。
ルートからちょっとまわり道して。
緑が溢れる谷を眺める気持ちいい景色。
精錬所があった時代には、左の斜面に年中煙が立ち、右の斜面には関係者の住宅がありました。
山道でバス2台分の住友林業の研修の御一行とすれ違いました。
銅山で必要な木材を調達していたことが原点の住友林業。
住友化学、住友金属、住友重機…、住友グループは別子銅山での需要を充たすように誕生・発展していきました。
道端に、探してたアカモノの小さな花が目を引きます。
赤い実を付けることから名前のついたアカモノは、花茎も鮮やかに赤くて、よく目立つ。
葉が全く違うツガザクラ↓。
近くに萼と花茎が緑の、アオジクツガザクラが咲いていました。
銅山越に続くかつての牛車道。
露頭(鉱石が露出している場所)を見つけたことから始まった別子銅山の歴史。
上等な鉱石を含む大露頭が残っていました。
その近くに、江戸時代、大鉱床を狙って堀り進めた坑口もあります。
まわり道と寄り道を繰り返して、ツガザクラ満開の銅山峰にたどり着きました。
西赤石山山頂を、遠いな~と眺める。
山の交差点、銅山越で山頂を目指すか考えながらお昼ごはんを食べて。
やっぱり来たからには山頂に向かいます。
前日の強風に耐えたミツバツツジ。
苦手な岩登り。
何ヶ所か続き、だんだん怖さが増していく(;;)
岩登りの合間にたくさん咲いてたコクワガタ。
ずっと後ろの景色を気にしながら登り、いくつか目の岩登りの後に石鎚山が見えてきました。
前回は真っ白で見えなかった景色✨
左に笹原が見える笹ヶ峰と、右の沓掛山の間に、西黒森、瓶ヶ森、石鎚山が奥に続いていく。
これが前回も見たかった景色(*´∀`*)
新居浜の街、国領川も海までくっきり。
たった2週間の違いで、頂上は虫だらけ⤵︎ ⤵︎
もうそんな季節です。
下山の途中、遠くにまさかのアケボノピンク。
他の木より完全に出遅れて咲いたアケボノツツジとの、嬉しすぎる遭遇でした❀。
選んだ下山の道はかなりの急で、下山後に立ち寄った別子銅山記念館の色づき始めたサツキを、ギクシャクの足取りでなんとか(¯∇¯;)
銅山峰に西赤石山。
軟弱な我が家が足を踏み入れられない奥地にも、まだまだたくさんの遺構が時を重ねています。
いろいろあった住友の歴史、しばらく余韻を楽しんでます。
岩場は怖いけど…先人達を偲び、また行こうと思います。
今回も長くなりまして…
m(*_ _)m