堀田善衛『路上の人』を読み返すごとにそのすごさを思い知る。今回、一年ぶりかに読み返してみて、物語の重厚さを支える無駄のない人物造形、見事な配置など、作家としての手腕にやっと気付いた。主人公の一人、法王庁の法王付大秘書官である騎士アントン・マリアのような男を“作り出せる”者は今もいるだろう。だが文章で描き出せる作家はどれだけいるだろうか。

 

 私が堀田善衛を知ったのは、『スペイン断章』『バルセローナにて』『スペイン430日』、そして『ゴヤ』といったスペインがらみのシリーズで、本を読むというより「何でも知っている物知りなおじさん」からヨーロッパの幾重にも重なった豊かで芳醇な文化を知的に、だが目の高さより少し上のあたりから面白おかしく話をしてもらっているようだった。“スペイン系”の語り口(文体)に親しんだあとで島原の乱を描いた『海鳴りの底から』を読んでびっくりした。何だ、“普通”の小説も書くんだ……。

 

 先日、般若心経の写経をした。とはいっても、お経の意味を知らないまま、ただ漢字を書いただけだ。だが「無」という文字がこれでもかというぐらいに出てくるのに気付いた。反省をこめて般若心経について書かれた本を読んでみた。

 般若心経には「空」という文字も7回出てくる(ただし、ここでの「空」は、「空っぽ」ではなく、実体がないということ)。ふと、堀田善衛がどこかでキリスト教の旧約聖書の「空」について書いていたなと思い出す。探し当てるのに少し時間がかかったが、ずばり「空の空なればこそ」(1998年)と『時空の端ッコ』(1992年)収録の「創世記と伝導の書」にたどり着いた。

 

  伝道者言く、空の空、空の空なる哉、都(すべ)て空なり。日の下に人の労して

  為(なす)ところの諸(もろもろ)の動作(はたらき)はその身に何の益かあらん。

 

 堀田善衛は「あらゆるキリスト教の教典のなかでも、特異かつ異常な思想を表明」したものであり、「その核心はほとんど異端に近い」と書く。たしかにどこか仏教の四諦のうちの苦諦と同じ匂いがする。ただ、仏教がその苦しみからの解脱を説くのに対し、「伝導の書」では、全ては空なのだから、

 

  日の下に汝が賜るこの汝の空なる命の日の間、汝、その愛する妻とともに喜びて

  度生(くら)せ。汝の空成る命の日の間しかせよ。

 

と言う。曖昧なところの一切ない現実的な「伝道の書」の理性は「だから日々を楽しんで生きろ」と言う。そしてこう続ける。

 

  其は汝の往かんところの陰府(よみ)には、工作(わさ)も謀略(はかりごと)も

  知識も知惠もあることなければなり。

 

 一見仏教と似ているが、落ち着く先は違う。ここには、仏教のように輪廻の輪から解脱するという考えはもちろんない。人は死んで手ぶらで陰府の国へ下りていくだけなのだ。

 

 堀田善衛は年に一二度、ひどく落ち込んだときにはこの「伝道の書」を朗読して元気を取り戻すのだという。またこうも書いている。

 

 「徹底的な虚無感につらぬかれた、いわば甘美なキリスト教」

 

             (「伝道の書」の引用はすべて 堀田善衛『空の空なればこそ』より)