メモASKAさんのブログより転載

 

2023年11月17日

 

天才「木村和」逝く〜加筆

 
5歳の頃の「木村和」を知ってるのは、業界では僕だけでしょう。

KANの奥様からも、そのようなことを言われた。

KANが5歳と6歳の時、2回「缶蹴り」して遊んだんだよな。
大人になってからは、スタレビの要(カナメ)と僕で「和蹴り」して遊んだ。
ステージ上でね。

子供の時に遊んだことのある「木村和」と、再会したのは「下北沢」のお店。
その時、KANは「愛は勝つ」を大ヒットさせてた。

その直後にフジTVの「101回目のプロポーズ」の主題歌の話がC&Aに舞い込んできた。

プレッシャー?
ありましたね。
ものすごくあった。

当時「月9(月曜夜9時)」と呼ばれていた、その前のドラマ「東京ラブストリー」の主題歌「ラブ・ストーリーは突然に」で、小田和正さんが200万枚超えのいわゆる「Wミリオン」を叩き出していたから。

今では「叩き出した」なんて表現は使わないけど、あの当時は最もCDが売れた時代。
ミリオン(100万枚)セールスする楽曲がたくさんあった。
そんな時代だったから、当然、メディアも世間もCDセールス(売り上げ枚数)を、語りに語っていた。

「〇〇万枚を叩き出す!」

なんて、表現してましたね。

小田さんの後でしたから、当然比べられる。
その時、KANの「『愛は勝つ』のような曲を作りたい」で、完成したのが「SAY YES」でした。

なので、KANがいなかったら「SAY YES」は生まれてなかった。
そして、今度はKANが至る所で、僕の「はじまりはいつも雨」「SAY YES」のことを語ってくれるわけです。

「SAY YES」が「愛は勝つ」から生まれたことを知らずに(笑)

それから、間も無くだな。
福岡の実家、斜め前の家の奥様から、あの時、2回遊んであげたことのある子供が「木村和」であったことを聞かされるわけです。

バタバタと記憶のページをめくりに捲って、その時の光景にたどりついた。

「あ、あいつだ。子供のくせにネクタイしめて紺のカーデガン着てたやつだ」

大人になってからの付き合いは約30年。

先日、奥様とフランス旅行後、僕が宿泊していたホテルに来てくれ、お土産を「フロントにトン」してくれた。
チョコレートね。

いつも新譜が完成する度、そのCDを僕の住んでいたマンションの郵便受けに「ポストにポン」してくれた。

ネットには出回ってます。
「3回接種していた」と。
僕は、2回目直後、

「もうやめておけよ、3回目は無しだぞ、ガンになるからやめろよ」

こう強く伝えていただけに、僕には「ステージ4」になったことは伝えづらかったみたい。
昨年、11月に「ガンになっちゃいました」って報告してきた。
因果関係はわからないですよ。
この国ではそれを認めないことが前提ですから。

なので、わからない。

5歳の頃にネクタイを締めていたおぼっちゃま木村和は、僕たちアウトローとは違って、オーケストラのスコアをも書ける「音楽家」と呼べる存在だった。

天才ミュージシャンですよ。

「フロントにトン」の後、病状が急変した。
連絡を受けて、すぐに顔を見に行って来ました。

あいつは、そんな音楽家でありながらも、コントやギャグには厳しかった(笑)

「お前さ、こうまでなっちゃって。な?もう誰もが、もう危ないと思ってると思うんだよ。この状態からギャグで『戻って来ました』しないか?」

そう伝えたら、KANの目がキラリと光った。
ほんと、あんな状態になってでも「ギャグ」という言葉に反応した(笑)

最後に電話でKANが僕に告げた言葉は、

「3回も約束を破ってごめんなさい」

だった。

その「3回」というのは、ワクチンのことではありません。
一緒に乗り越えようとしたこと。
でも、無理もない。
僕がKANでもきっと無理だった。

いつだったかの12月24日。
KAN、要、そして僕の男3人のクリスマス会、楽しかったなぁ。

そのクリスマス会直前に、KANが未発表楽曲を「メールでポン」して来たことがあった。

あの楽曲に入っていたKANのボーカル(部分的歌詞あり)を抜き出して、オレと要で完成させるからね。
心配するな、レゲェにはしないから😀

KAN、ありがとう。
オレの前に現れてくれてありがとな。

これは、KANが還暦を迎えた時に、写真館で撮った写真です。
 
 
 


なんなんだよ、お前は・・・。

KAN、愛してるぞ。
オレも、いつか「あっちにポン」するから。

その時は、迎えに来てくれな。

ありがとう。
 
 
ASKA(2023/11/17 16:04)