私は夢見が悪い性質で、だいたいいつも夢の舞台は戦場で、怖い思いをして目が覚めます。
それが珍しく、海の夢を2日連続で見ました。
1回目は、クジラに咥えられて海水面近くを移動していました。
クジラに私を食べる意思は感じられず、ただ、ちょっと噛み方が強いので、緩めてほしくて、クジラの歯を握りしめてメッセージを送ろうとしているところで目覚めました。
ちょっと見たことない夢だったので、すぐにネットで夢占いをみたのですが、私に当てはまらるパターンはありませんでした。
https://spirituabreath.com/yumeuranai-kujira-3448.html
2回目は翌日。
パパと一緒に、鈍行列車に乗っていました。
場所はたぶん、東海道線のどこか。
海の近くです。
海岸線からは遠く離れているのですが、まるで波打ち際で見ているかのように、
車窓に大きな波が盛り上がりました。
「みてみて、あんなに大きな波が来る」
と私が言った次の瞬間、電車に波がかぶさってきて、車内はびしょぬれになりました。
でも、私とパパは、頭から水をかぶったお互いを見て笑っているのです。波打ち際でズボンが波に濡れてしまっただけかのように。
そして、あれだけの波を横からかぶったのに、どうしてこの電車は走っているのかな?と話し合い、車輪がモノレールみたいに深くレールをはさみこんでいるのかな?などと話し合ったところで目が覚めました。
起きてみて考え直すと、あの波は最大級の「津波」と呼んでもいいものでした。
でも、怖くもなかったし、街が破壊されている描写もなかったし、電車はそのまま走っていきました。
これも夢占いでは、あてはまりませんでした。
ただ、警告夢というのがあるらしく、それだけ心配でしたが、今のところ何も起こっていません。
https://yumenouranai.com/archives/2252.html
夢の中の物語は、いったい誰が描いているのでしょう?
これを考えると、それは「私」自身の無意識としかいいようがなくなります。
では、この現実の生活が夢だとしたら、この私の物語は誰が描いているのでしょう?
人間というのは不思議で面白いと感じました。
昨日は下の子の部活の試合の応援に行ってきました。
点差が5倍以上という、圧倒的な勝利だったのですが、相手チームの子たちが、後半に入って得点を上げてきたりして、その折れない心に感心したり感動したりしました。
トーナメント式の試合って、最終的にはほとんどすべての子たち、99%以上が負けて終わります。
だけどやりきったそれぞれの子たちにとっては、かけがいのない青春。
「そこが少しだけ勉強と違う、素晴らしいところよね」と感じたりして、下の子たちの燃焼する姿を応援していました。
それに比べると勉強は、受験という勝敗とセットになることによって、残酷な一面を生み出します。
ただ勉強は、スポーツに比べれば、たとえ受験に失敗したとしても、学んだことや学ぶ態度は残りますから、より多くの人が身を立てる術ともなります。
ところで、都の大会で1回戦とか2回戦とかいうと、なんだか価値の低いものと受け止めてしまう一面が私の中にありました。
それは私たちがテレビで目にするスポーツ選手というのは、県大会や全国大会を制した子たちばかりで、それが「普通」の基準になってしまっているように感じたからです。
しかし一方で、地方大会で1回戦とか2回戦で終わる、というのが、大半の子たちの青春なのです。
そして、これを私によくわかる「偏差値」という考え方で見ると、価値が一変します。
1回戦突破=2分の1=上位50%=偏差値50
2回戦突破=4分の1=上位25%=偏差値57
3回戦突破=8分の1=上位12.5%=偏差値61
4回戦突破=16分の1=上位6.25%=偏差値65
5回戦突破=32分の1=上位3.125%=偏差値69
6回戦突破=64分の1=上位1.5625%=偏差値71
東京のこのスポーツの場合、6回勝つとブロック優勝になります。
そして4ブロック代表の総当たり戦を制して、晴れて東京代表となるのです。
すると
東京代表=256分の1=上位0.39%=偏差値77
全国大会優勝ともなれば、もう、偏差値でみることが無意味化するレベルということです。
偏差値では何千人に1人とか何万人に1人、という価値を見ることができません。
地球に75億の人がいるならば、それが何の分野であれ、偏差値70以上(2.2%)の人は1億6500万人もいるのです。
私たちがテレビで目にするようなアスリートたちというのは、本当にものすごい人たちなのは当然なのですが、
地方大会で3回戦、4回戦といっても、普通ではない優秀な選手たちだということがわかります。
ちなみにうちの下の子の学校の過去最高成績は3回戦敗退です。
それでも、その生き方の懸命さに涙が出てきます。
一人の生き方の価値の希少性は、すでに比較の対象ではないからかもしれません。











