やれることを問い直す | 勝手に☆とやまの定住コンシェルジュのBlog

やれることを問い直す

 

 

今朝がたはすごく寒そうな雨風が打ち付けていたのだけど、明けてみれば快晴。

見聞きするだけで胸をえぐられるような能登半島の状況に心を痛めつつ、今朝は大きな揺れとともに目覚めなかったことに少しホッとする。
 
県内では地盤の隆起や液状化などのニュースも相次ぐなか、私の住むまちは、何ごともなかったかのように、落ち着いている。(もちろん、ご近所さんの心の中はかき乱されているが…)
 
大事をとって、始業日を明日に遅らせたため、今日は基本的に私(と夫)だけの事務所。
建物の安全確認や、飛び散った砂埃、散乱したもの(あまりないけど)を整理し、掃除機をかけてきれいになると、ただ平和な日常の一コマになる。
 
そろそろなくなる頃かなと思って、食べ頃になったかぶらずしをご近所マダムにおすそ分け。電話では話してたけど、会うのは3日ぶり。ほんとに大変だったね~。無事でよかった、これからも気をつけようねと声を掛け合う。話す内容が違うだけで、これもいつもの光景。
 
何か、かみしめてしまう。

 

 

 

今年は、ほんとにいろんな新しいことをするぞ!と思って、奮発したお正月飾り。

今日から仕事始めの会社さんも多く、電話がかかってきてお互いの状況などを伝えあって切る。気がかりなのは、いま絶賛制作・編集中の、敦賀まで新幹線延伸に伴う旅行ガイドブックの行く末だ。

 

年末は、ほぼ全員+助っ人まで頼んで取り組んできたものだったので、もちろん大きく掲載予定であった有名観光地がいままさに直面している緊急事態を、どのように捉えてどのように進めるのか、検討が必要だ。

 

新しい事業、新しい雇用、新しいチャレンジ、新しい体制…2024年はそういう年としてスタートするはずだった。

 

予定は狂ったが、元日からの様々な災難から、普段はほとんど考えることもないことを改めて考えさせられることになった。…などと悠長に振り返ることができるのは、まぎれもなく自分たちが無事であったからである。

 

…正月の3日間は、今までの人生でもっともIQが下がった。目の前のことと自分や家族の命に対応することがすべてで、他のことに考えを及ぼすことができなかった。それは仕方がないことだし、それをどうこういうつもりはない。とにかく文字が読めず書けず、ひたすら紙工作をしていた。紙工作によって心の平静を保っていたのだった。
 

 

チェックし忘れていた事務所2階の和室(普段はほとんど使っていない)に立てかけていた型ガラスの扉が2枚倒れていた。上のガラスは木枠の中で盛大に割れていたが、下敷きとなったほうはなんと無傷だった。

 

 

割れているガラスが不死鳥のような形をしていた。復興を願って打ち上げられたフェニックス花火を思い出した。

 

緊急地震速報や津波警報がケータイにアラートで入ってくるイメージを、いつも頭の片隅に持ちながら、少しだけ、「今ここ」から前後のことを考えられるようになってくると、阪神淡路大震災のことや、中越地震のこと、東日本大震災、熊本地震などのことを思い出してくる。そして、あらためて、日常のありがたみをかみしめている。

 

SNSが普及した時代だからこそ、いろんな情報が入ってくる。東日本の時も、もやもやしてたことがあった。そして、被災はしたけどそうでもなかった私のような人たちが、次は、「もっと大変な人を支援しなくちゃ」と思うフェーズがやってくる。これも、毎回、繰り返す。その気持ちをどうにもできなくて、中越と東日本のときにはいろんな仲間たちと相談・準備して「くつした便」をやった。でも、熊本のときは、やらなかった。

 

富山の暮らしに重心が置かれるようになり、東京のNPO活動から少し距離ができてきたこともあるが、なにより、企画~現地へのお届けまで終始、自主的に関わり続けて責任をとる自信がなくなってきた、ということも大きい。私には、こちら側に守るものがたくさんできてしまった。

 

1)迷惑をかけないように、2)ぽっと心を温められることを、3)被災から少し経ってからというコンセプトでつくった「くつした便」は、今でも、いい企画だと思うし、誰かがやってくれたらと思っている。

けれど、「人の想いを受け取って現地に手渡す」ということの重責を、企画当初20代だった私が理解できていなかったからこそ敢行できた企画であるとも、今は思える。

 

首長さんとのホットラインがある団体だからこそ、万全を期し受け入れ先なども綿密に調整できていたが、それでも現地に行ってみると想定外のことが起こった。20代の私はくつしたを配りながら、厳寒の長岡の仮設住宅の用水に落ちた。めちゃめちゃ震えながら、高速をぶっ飛ばして東京に戻ってきたのを思い出す。30代の私は大熊町と双葉町の仮設住宅に行ってくつしたを配ったが、どこかもやもやとしていた。

 

…結局、やり場のない「何かしたい」という自分の一方的な気持ちを、「人と違う方法で」叶えたかっただけなのではないか?という自戒が、今までもずっとある。

 

私がやっているお仕事や専門性で、長く支援できることは何か。そして、支え合うために私や私の周りもちゃんと守り通せるかどうか。それを、日常に戻れた今の私が問われているのだと思う。(といってもまだ日常じゃないけどね)