やっと教師の会に再び資料室が出来留運びとのなった。 その中核となる本を集めるために、殆ど私一人で努力してきた。

日本に帰る人が本を置いていったらいいとか、寄付を呼び掛けたらよいとか、日本で余っている本を送ったらよいとか、皆さん言ってくれますが、実行するのは?という問題が何時もある。

今まで教師の会は機会があるごとに活動の基金になるようにと、会員はお金を寄付してきた。

森領事に会食代を出し戴くことが度重なって、じゃ私たちも出して積み立てようということになったし、私も歌集を出版して収益を教師の会に積み立てた。

それがかなりの額になったたが、経緯を知らない人たちが、それなら日常的に使ったらいいじゃないかと言うようになってきたので、一般会計と特別会計に分けた。

この特別会計も、それをなにかに使わなきゃと考える人たちが出てきたので、資料室の整備に使いましょう、と今回の集まりの時、提案を出した。

資料室に用意したい本を皆で考えてみて、「それを特別会計からお金を出して買う」。「日本で買ったときの送料も、負担する」。

候補の本をだれが買うかは問題ですけどね。それでも今までは、本も、本の送料も、わたしが個人で負担してきたけれど、この先は誰が貢献するのでも、特別会計でまかなってもらおうと思う。

この提案は、本質的に了承されて、来月までにそれぞれが本の希望を出すことになっている。そしてそれ以降は資料室係に一任と言うことにもなった。

あとは資料室をどのような形で開放するかを、考えよう。月に一度くらいなら、週末に私が当番をしても良い。





前に書いたように、招待を受けてこの夏に長春で開かれる中国の学会に出ることにした。

 

この決断は結構なことだが、問題は、中国が全く駄目な私としては一人で旅行が出来るかどうか危ういのだ。2007年に同じように誘われてウルムチで開かれた学会に妻と二人で参加したときにも、同じ問題に直面した。

 

誰か研究室の学生を誘おう。ウルムチは中国の西域で観光の地としても名高い(この1年は民族間の衝突で名高くなった)。誰か一人一緒に来て欲しいと言ったら、全員が希望した。その中から最高学年の王麗は博士論文で忙しいはずという理由で候補から除外して、1年生も除いて、なお4人の候補があった。

 

王麗はウルムチのある新疆出身なので、候補から外れて怒り心頭である。お土産を買ってくるからねとなだめて、さて、四人から一人をどうやって選ぶか。彼らに任せても選べないので、全員の見守る中、あみだくじを作った。

 

結局、男子学生の陳陽がくじを引き当てて、その晩は皆からご馳走を迫られて焼き肉屋で散財したそうだ。ただし、陳陽が皆にご馳走をしたのは後にも先にもこの時の100元だけという話が研究室に執拗に残っている。

 

費用はこちら持ちで1週間遊んでこられるのだから、皆の羨望の的になったのも当然のことだろう。勿論陳陽は、遊んだだけではない。彼は、旅行の間私達のことを十分見守り、世話を焼いてくれた。

 

この夏に誰か来て貰うとしたら、一つ問題がある。前回は私達二人だったから学生は男女どちらでも良かった。今度は私一人だ。そして研究室の学生は女性ばかりである。女性じゃまずいね。今年卒業した男子学生に頼もうか、と妻と話しつつ迷ったが、学生では学会に行っても勉強にはならない。私の案内だけで終わってしまう。この際、女子学生でもやむを得まい。

 

研究室に学生は6人いるけれど、学会に出て勉強になるという意味では博士課程の二人を候補にしよう、と言うことで、それぞれに事情を話した。張嵐は是非行きたいという。暁艶はとても行きたいですが、まず上海にいる男朋友に相談してからという。翌日、彼が言って良いと言ってくれましたと嬉しそうに言いに来た。

 

一人分の費用をこちら持ちで出して一緒に来て貰う気だったので、二人から一人を選ばなくてはいけないと思った。しかし、二人が費用半分づつを自分で出して来てくれれば二人を連れて行ける。ともかくどうするか二人で話し合って欲しいと言った。

 

しかし、中国の歴史を知っていますか?と暁艶がいう。「二桃殺三士」という言葉があります。これは一つの席を争って互いに殺し合うのではなく、自分が相手のために身を引くと言うことなのです。1年前までの研究室では、一つの席を争って殺し合ったかも知れないけれど、今の研究室は皆仲良しだから、自分が相手のためにそれを相手に譲ることになるのです。。。

 

確かに話し合いでは、互いに相手のために譲り合うという謙譲の美徳は日本では普通に見られる事柄だ。そうか、中国でもあるんだ。

 

今は死語になっているらしいけれど、この「二桃殺三士」の最後の「士」は士大夫のことで一般の人たちとは違う教養人のことだ。この美徳は、昔は知的階級の間のみで見られたことと思って良いかもしれない。

 

しかし今回は、張嵐と彼女の研究の話をしているうちに彼女は今実験室を離れるのは自分のために良くないと思ったらしく、学会には行きたいけれど撤回すると言い出して、ことは自然に解決した。彼女の謙譲の美徳の表明かも知れないが。

 

私は8月に暁艶に連れられて、長春まで旅をする。

今学期は公式には717日まであるが、私達の研究室では10日の土曜日を今学期最後のジャーナルクラブと言うことにしていた。その日の演者は大学院博士課程最高学年の張嵐さんと私ということになっている。

 

張嵐が来て「先生、今度のジャーナルクラブはお休みにしましょうよ。だって、新学期からは二人の演者のうちの一人は、歴史的に大事な論文を紹介することにしたでしょう。来学期一番最初に先生で幕開けというのがいいんじゃないですか?」という。

 

うーん。半年に20回しかジャーナルクラブはないのだ。4-5回しか回ってこないんだから、私は余り変更を加えたくない。しかし、一方で、自分の順番だから、面白い論文を見つけてきて初心者にも分かるように話すと言う要求に応えなくてはならない。自分でも、この機会に新しいことを学びたいので、これと論文を決めるまでには結構時間が掛かる。今回は5つの候補にまで絞った挙げ句、まだ迷っている。

 

ちょうどその時、北京の友人から電話が掛かってきた。最初は「李です」と言われても分からない。どこの李さんだろう。北京の李です、と言われて記憶がよみがえってきた。

 

以前日本にいるとき知り合った中国人研究者だ。私が日本皮革研究所に移ったときにポスドクを雇用できる研究費があって、それで人を探していた。彼もそれに応募してきた。李さんは糖の合成の研究分野にいたので、私のところよりも北大にもっと適当なこところがあった。それでお断りして彼は北大に行き、そこで研究を続けて10年くらいして、彼は北京に教授として戻ってきたのだった。

 

その時に採用して仲良しになった呉さんは北京で今仕事をしているし、この李さんと友人と言うこともあって、2年前北京から二人で瀋陽に私達を訪ねてきてくれたことがある。

 

電話で李さんが言うには、中国の糖質科学の研究者の学会がこの夏長春で開かれるのですよ。それに先生を招きたいのですが、参加して頂けませんか?糖の研究者が一堂に集まるという良い機会だから先生是非いらして下さい。

 

聞いてみると、810-12日に学会があるという。だいぶ目前に迫っている。きっと、参加者が足りないし、目玉になる人が来なくて、どうしようかと鳩首相談をしているときに、李さんが思いついたに違いない。

 

「基調講演をお願いしたいのです」「だって、私はいまだに中国語が全くしゃべれませんよ」「いえ、英語でいいんですよ」という具合だ。

 

ちょうど今、妻の貞子が治療の合間に瀋陽に来ていて、彼女が日本に戻る717日に合わせて日本に一緒に帰り、長い夏休みを楽しもうと思っていたのに、その予定が流れてしまう。

 

おまけに、81-6日には、国際糖質シンポジウムが日本の幕張で開かれるのにも出ようかと思っていた。中国の学会に出るためには87日の土曜日には成田を発たなくてはならないから、国際シンポジウムにはゆっくり出ていられない。

 

中国の学会に出る利点を考えてみた。

 

中国で学会に出ても言葉の問題があるので、学問情報と言う点では収穫は余り期待できない。しかし今まで中国の糖関係の研究者というと、昔の関係の数人しか知らないから、中国の糖質研究者に会うのにはまたとない機会だ。

 

私の研究室を出た人たちは学部生もすべて入れると40人以上いる上に、大半は研究者の道を歩んでいるから、私が中国の大家と顔見知りになっておくのは、彼らの将来のために大いに意味があるに違いない。

 

自分の夏休みを犠牲にして皆のためになることをするのだ、なんて思ったらやけに元気が出てきて、じゃ10日のジャーナルクラブもやめにしましょう、と元気な声で張嵐に指示を出していたのだった。

 

この二つの間に因果関係はないのに、訳の分からない結びつきをしてしまうところが、この頃の困ったところだ。

76日の火曜日の朝、読売新聞瀋陽支局長の比嘉さんから電話が掛かった。「インタビューした記事が出ましたよ。それを持って伺いたいのですが、一緒の食事はどうですか?」

 

待ち焦がれた電話だった。3日に新聞に載ったのだ。何時コピーが届くかとこのところ、E-mailを見るのを連日楽しみにしていたのだ。ちょうど妻も瀋陽に来ているので、彼女も食事に誘うよう頼み、さらに多田先生も一緒の食事に誘うよう提案した。

 

多田先生は読売新聞社の記者出身で、今は薬科大学で日本語の先生だ。比嘉さんの大先輩に当たる。あとで分かったが、お互い電話では何度も話しているけれど、まだ会ったことはなかったそうだ。

 

と言うわけで大学の近くで昼ご飯をご馳走になりつつ、再びおしゃべりに興じた。

 

比嘉さんの書いた記事は「人 世界が舞台」という囲み記事だった。

 

--- --- --- --- --- --- --- --- --- --- ---

 

「研究者養成 瀋陽で熱中」 山形 達也さん 73 

 

生化学の研究者として50年。東工大教授を経て2003年に民間研究機関を退職し、活動の舞台を中国遼寧省瀋陽の瀋陽薬科大学に移して研究と学生の指導に打ち込んできた。邦人としては中国でも数少ない理系の長期滞在研究者の一人だ。週末も研究室に通うといい、「今でも現役の研究者です」と胸を張る

 

最新の研究成果も簡単に入手できるインターネットが異境での研究を支える。06年以降、指導する中国人学生との連名で7本の論文を国際的な学会誌に発表した。研究室の若手は「ここは設備は十分でないが、先生の指導で成果が出ている」と誇らしげだ。

 

理系の研究者を志して東大に入学した1956年は、生化学が発展期を迎えつつあるころだった。若い講師の熱気に触れ、「この学問を一生の仕事にしよう」と誓った。

 

人体の軟骨部分に含まれ、細胞組織に保水性や弾力性を与える「コンドロイチン硫酸」と呼ばれる物質の構造研究に役立つ酵素を発見するなど、早くから業績を重ねてきた。日本での糖鎖生物学研究の草分け的存在の一人でもあり、専門誌の創刊にも尽力。妻はがんを、長女は疫学を研究する学者一家だ。

 

中国へ移るきっかけは、瀋陽薬科大学と提携関係にある日本の大学の関係者に勧められたことだ。「生化学の研究が発展途上にある中国なら、学生の教え甲斐もありそうだ」と決意。妻と共に、高価な実験器具を持参して瀋陽にやってきた。

 

中国人学生の勤勉さは予想以上だった。良い成績を収め、奨学金を得て「親孝行がしたい」と懸命に学ぶ姿に、指導意欲をかき立てられた。研究室の門をたたく学生には「一流の研究者にしてやる」と殺し文句をぶつける。既に40人以上の学生を研究室から送り出し、20人近くが国内外で研究者として活躍している。

 

現在の教え子6人はいずれも女性。「中にはモデルのような美人もいるが、年を取ったから気が散らずに済みます」と笑う。最初は5年間の滞在予定だったが、すっかり中国が気に入り、さらに5年間の契約延長を決めた。「瀋陽日本人教師の会」(会員約20人)の副代表も務める。

 

経歴と穏やかな話しぶりからは想像しにくいが、「瀋陽でイェーイ」というタイトルで日常生活をつづるブログを更新する側面もある。「気分は若いですよ」

 

(瀋陽 比嘉清太、写真も)

 

--- --- --- --- --- --- --- --- --- --- ---

 

いや、大したものだ。新聞記者ってすごい。2時間近く会っただけで、余分な言葉を使わずに、話した内容を的確に記事にしている。しかも、私をわずか940字で要約している。前回の私のブログは、1938字と2倍も字を書いているのだ。

 

高木純夫さんのお陰で、新聞に記事が載ったし、新しく比嘉さんと知り合うことが出来た。感謝、だ。

瀋陽には2006年から大手新聞社の支局が出来ている。そのうちの一つ読売新聞の支局長をしている比嘉さんからインタビューの申込みがあった。科学新聞の記者とは私達の研究成果のことで何度か会ったことがあるが、一般新聞の記者からインタビューを受けるなんて初めてのことだ。

 

いったい何故だろうと言うのには訳があって、元々は「海外で活躍する日本人」という囲み記事があって、これに伊藤忠瀋陽・ハルビン事務所長である高木純夫さんがインタビューを受けることになっていた。しかし、彼は7月で帰国するので適当ではない、その代わりに瀋陽に7年もいて日中友好に「活躍している」山形を登場させたらと提案したらしい。

 

628日の夕方、高木さんから電話が掛かってきて、上記の状況を知った。私は慌てた。だいたい、23日に高木さんの送別会をしたあと、彼から直ぐに礼状も頂いたし、その時の写真も送って頂いたのだが、卒業研究生を送り出した虚脱状態が続いたまま、何の反応もしていなかったからだ。それだけでも慌てるのに十分だが、さらに新聞記者にインタビューを受けなさいと言う話だ。そんな記事に取り上げられるほどのことをしてきたわけではない。

 

しかし、高木さんと押し問答をしても全く意味のないことだ。潔くこの話を受けることにして、読売新聞音記者からの電話を待った。直ぐに電話が掛かってきて、いつから瀋陽にいるのですか、とかどういういきさつがあって瀋陽に来たのですか、など聞かれた上で、近いうちに一度会えませんかと言うことになった。

 

翌日の午後を指定した。新聞記者に会うなんて、きっと昔なら心が躍っただろうと思う。しかし、全く何も感じない。「歳を取ると言うことは感動を失っていくことだ」と言う誰かの淋しい言葉を思い出した。それでも、どういうことが焦点を浴びるのだろう、と思った。きっと、日中友好に役立ったかどうかだろうな。でも、これは私の視点から論議できることでもないしね。

 

それで思いついて研究室の院生の暁艶に尋ねてみた。彼女は、「そりゃ先生は日中友好に貢献していますよと言う。だって、私達ずっと学校で反日教育を受けてきました。ここに来るまで日本人なんて見たこともなかったのですよ」という。

 

思わず言ってしまう、「日本人は血に飢えた殺人鬼と教わったのでしょう?」

 

彼女はにこっと笑って、「ここで日本人を見て、イメージにあった日本人とずいぶん違うことが分かりました。とても真面目で、陰日向のない働き者で、しかしユーモアいっぱいで、ちっとも威張っていないすぐれた日本人を見て、それまでの日本人のイメージがすっかり変わりました。これは私だけではありません、大学中の学生が同じ印象を持っていると思います。これは日中友好の上でとても大きな貢献じゃないですか」という。

 

本人が目の前だから褒め言葉もあるだろうけれど、大学で学生に講義をして、研究室を持って研究成果を出していくという以上に、数字では計りきれない貢献もしているかもしれない。

 

さて、火曜日の午後現れた新聞記者の比嘉さんは、年の頃は三十歳代前半に見受けられた。私くらいの背丈の、ぼそぼそとおしゃべりをする人だ。今薬科大学に読売新聞の記者だった多田先生が日本語教師で赴任しておられるので、思わず大柄で元気の良い多田先生と比べてしまうが、新聞記者に一つのステレオタイプがあるわけでもない。

 

まずおきまりの、私の経歴からと言う質問から始まり、やがて、何のきっかけで生命科学の研究者になったのですかとか、どうしてがんの研究を今も続けているのですかとか、中国の学生はどうですかとか、いろいろな観点からの質問があった。日中友好に役立っていますかなんて言う質問はなかった。ま、当然だ、本人が評価することではないからね。

 

研究室を案内して学生ともおしゃべりをしていたのを含めて2時間近く、彼に付き合った。終わってみて、今まで話したことで何か焦点のある一つのストーリーが出来たのかな、と人ごとながら心配になって聞いてみた。「こんな事から何か書けるんですか?」

 

「大丈夫ですよ、メモしたことから、ちゃんと話は出来ます」という。そりゃ話は書けるでしょう。でも、「海外で活躍する日本人」ですよ。読み甲斐のある話になるのかしらね。本人が心配する事じゃないけれど、本人じゃなければ心配しないわけだし。

 

この「海外で活躍する日本人」は電子版で、つまり日本では読まれない海外版なのだそうだ。残念なことである。この記事を読んで、後に続こうと思う読者がいるとしたら、日本にいるに違いない。惜しいことだ。

 

73日の読売新聞海外版に載ると言うことだった。新聞が出たら私にも送ってくれると言うことだ。楽しみにしている。

この薬科大学に招聘されたのが2003年春で、その時は5年の契約をした。契約は2008年まで有効だが、修士の学生を採ると言うことは、採用してから3年間責任が生じるので、2006年度の学生を採る前には2009年までいても良いですか、とあらかじめ口頭で許しを貰った。

これを毎年繰り返して、一方で契約はそのままなので、2008年夏からは、無契約状態に入ってしまっていた。ついこの間久しぶりに呉校長に会ったとき、この先数年はここで仕事を続けたいと話したら,いいけど、そういえば契約がそのままになっていたっけ、国際交流処の程所長に話しておくと言うことだった。

それを受けて今日、国際交流処の徐寧さんから電話で,契約書のことであとで程処長と一緒にここを訪ねるという。そんなのは申し訳ない、こちらはただの教授で先方は、校長助理(つまり校長の公式ブレイン)で、しかも私達外国人を総括する国際交流処の処長である。こちらが伺うといったけれど、結局押し切られた。

10分もすると二人が現れた。契約書が出来ている。見ると2008年の契約の日づけた。遡って契約をすると言うことになる。

そして契約の期限は3年間で、2011年夏になっていた。しかし、それでは困る、現時点で修士の1年生がいる。今年と来年が学生を考えると、許されるならば、2014年までここで仕事をしたい。何時までもいたいだけいていよと言われているけれど、期限を切って考えておかないと将来計画が立てられない。

程処長は私の希望は全く問題ない。2008年から5年間、つまり2013年までにしましょうとこともなげに言う。その先1年延ばすのは問題ないですよ。

話をしていて見えてきたのは、この大学としては外国人と言うことで特別扱いをしていることに問題はないけれど、ここで仕事をするために必要な専家証をは発行している国家機関が問題なのだという。

つまり、高齢の人をどうして雇うのかと言うことを大学は説明してクリアなくてはならない。これが、結構面倒らしい・当然と言えば、そうなのだが、何時までもいたいだけどうぞといわれていてそこまで考えていなかった。

ということで、2008年に遡ってそれから5年間、2013年夏までの契約にサインをした。あと3年(あるいは4年)、この大学の発展のために出来る限りの力を尽くそうと思う。

二日前、田宮務が亡くなったと聞いて私は彼の思い出を書いた。その後、もしやと思ってインターネットで「田宮務」を入れると数件のヒットがあった。そのうちの一つは、私が「瀋陽だより」で2004年に書いたものだった。

 

それ以外に、二つが見つかった。どちらもSawadaさんという写真家のブログだった。その一つを引用する。

 

「金谷の里」(http://sawada-studio.com/blog/2010/01/post-287.html

 

2010124日  コーヒーを飲みながら先週キンダーの代表、田宮務さんから届いた短歌集のページをめくる。

 

田宮さんは年に一回、現在住んでいる千葉県金谷の豊かな自然の移り変わりやその時々の心境を歌った「金谷の里」という自作の短歌集を発行していて今年で第九集となる。

 

その歌集を読めば田宮さんの一年間の様子や心境が手に取る様にわかってしまう。

 

短歌というとチョット退屈なイメージがあるが、ユーモアのセンス抜群なのでとても面白い。また、解説があるので素人にも分かりやすいのだ。

 

今回の短歌集で私が一番好きな歌です。

 

齢重ね 生きてる事の 幸せは 一椀の飯 二合の 晩酌

 

<解説> 若い時はそれなりの野望や自負等で勢いのある生き方があると思って暮らしていましたが、この年齢になると飯が旨いと感じたり僅かな酒に酔い、安らかに眠りに入る事等が幸せな生き方ではないかと感じるようになりました。(金谷の里 第九集より)

 

第十集、楽しみにしております。』

 

これは私も印象に残った歌だった。

 

Sawadaさんは写真家で、仕事の関係でブログを書くだけでなく連絡先も公開しておられる。それで、澤田光伸さんに衝動的にメイルを書いた。前のブログに書いたように、田宮とは60年近く会っていなかったけれど、ずっと彼のことは懐かしく思い続けていた。

 

その私の知らない田宮の人生と仕事の軌跡と交わった人を見つけて、無性に嬉しくなったためだと思う。

 

直ぐに澤田さんから返事が来た。

 

それによると、『キンダー(田宮務が代表である会社で、幼児教育や一泊保育を行っている)では「ちゅうちゅうマン」と言う名前で園児や先生達に親しまれていました。「良い子にはホッペタにチューをします。悪い子にはお尻にチューをしちゃうぞ~。ムッムッムッムッム~」といった感じで大人気でした』とあった。

 

昔の友人の、私の知らない人生に触れた方から頂いたメイルで田宮務のその後の人となりが鮮やかに浮かんできた。彼に死なれたことを知って胸に出来た空洞が、ほわっとした暖かさで少し埋まった気がする。

 

彼が多くの人たちに親しまれて、田宮にふさわしい人生を生きたことを知って、とても嬉しかった。しかし「金谷の里」第十集を見ることはなくなってしまったのが悲しい。

小学校の時の同級生だった田宮務が亡くなったと聞いて、びっくり。会おうと思ったら会うことが出来たのに、何時でも会えると思って先延ばしをしていた自分を後悔して、知らせのメイルを読みながら、涙があふれた。

この歳になれば、
何時だれが死んだっておかしくないことは百も承知している。でも田宮は、小学校を卒業して以来、変わらない若々しい面影のまま私の心に住みついているので、晴天の霹靂の思いだった。

昭和20年末の東京第一師範付属小学校で私は、
その一年前に縁故疎開や学童疎開で離散した生徒を集めて男女合同で再開した3年生のクラスだった。疎開に行ったまま戻ってこない生徒数の減少を補って、4年生、5年生のはじめに補欠募集をして生徒が増えて、再び私のクラスは2組の男子クラスになった。

田宮が入って来たのは
この4年生の4月からだったように思う。正確には覚えていない。戦後の小学校教育はそれまでと大きく様変わりして、クラスの中に5-6人くらいからなる班が作られて、そこが学習の単位、自治活動の単位となった。

この班割りが、担任の加藤先生に依るものなのか、
自主的なものなのかも今は覚えていないが、気付いてみると、私は何時も田宮と同じ班にいた。

何時のころからか、私はクラスで「お嬢さん」
というあだ名を貰い、ことごとに山本とか野村とかの悪童どもに、あだ名がお嬢さんだからという、それだけの理由でからかわれていた。

田宮は「おじいさん」と呼ばれていた。これは田宮が温厚で、
決して荒げた態度を人に示すことがなかっただけでなく、彼が述べる意見には人を承伏させる重みがあり、何時も大人の判断力を示していたことを全員が認めていたからだろう

田宮は私がいじめられていても特にかばうことはなかった
が、私が悪童どもに追われて半泣きで教室に逃げ帰ってくると、彼らに向かって「もういいじゃないか」というのだった。私に向かっては元気ないじめっ子も、田宮には歯が立たなかった。田宮の身体が大きかったと言うことはない。私と変わらない小柄な背丈だった。それでも、悪童は田宮に言われると威圧されて、私にそれ以上何も出来なかった。

勿論、そのくらいだから、
田宮が私をお嬢さんと呼んで嘲笑することは決してなかった

小学校の卒業式のあとの謝恩会で3組の女子クラスは、卒業する生徒を指名して芸をやらせるという演し物を用意した。田宮は、ラジオで野球の実況解説をするアナウンサー役に指名され、渡された原稿を読んだ。顔を紅潮させながら明瞭な早口で、彼は見事に演じきった。ついでながら、私は自分が指名されたらどうしようと一人やきもきしたのに、お呼びは掛からなかった。その頃も女生徒の目にとまる存在ではなかったわけだ。

田宮は卒業の時には小学校卒業時に伝統となっている滝澤賞を、
クラスでは大須に次いで二番目の席次で貰った。つまり、田宮は成績も良かった。

でもあの頃のぼくたちには、
成績がよいかどうかは友だちと付き合う上での基準ではなかった(その後だってそうだ)。信頼できるかどうか、これがすべてだ。田宮は小学校の間、ぼくが心の底から尊敬する友人であり、何かにつけて頼りにしている友人だった。田宮が言ったからと、田宮の言うとおりに振る舞っていたような気がする。田宮は今の言葉で言うと私の守護神だった。

大人になって年賀状をやりとりするようになって、
田宮とも年賀状を交わすようになった。それが、私たちが働き盛りだった
40歳代のころ、やがて途絶えた。田宮がどうしているか、どうしても分からなかった。

それから約二十年経って田宮の消息が知れた。
事業の上で友人の借金を連帯保証したために、その2億円の負債を一人で背負った田宮は一切をなげうってその返済に努め、それを返し終わったあと、再び同窓会の私たちの前に現れたと人づてに聞いた。

やがて、千葉の金谷に、今は住んでいることを知った。
子供相手の事業も続けながら、
毎年正月には、はるかに千葉の海を眺められる自然の中でゆったり暮らしている様子を、50首くらいの和歌に読み込んで、それが「金谷の里」という小冊子になって送られてきた。

心和む歌の数々だった。どの歌にも解説が付いていた。
大きな夢とそれを打ち破る手ひどい挫折があっただろうに、穏やかな響きが歌の隅々まであふれていた。

今年も2月に私が日本に一時休暇で戻ったときには、「
金谷の里」が届いていた。ぱらぱらとめくって今年は歌の数が少ないことがちょっと気になった。それでも、又あとで見ようと本を自室の机に置いたまま、私は中国に戻った。

もう60年近く、田宮には会っていない。
でもその間、私の心の中で田宮がにこにことしたあの頃の顔で、私を何度励ましてくれたことだろうか。田宮の身体がこの世から消えても、これは変わることはないだろう。私が生きている限り、田宮は私の心の友人として生き続ける。

最近出来た中国人の友人・朱紅飛さんと話していて、中国でツクシが見られるかなという話になった。清朝の初代皇帝であるヌルハチのお墓のある東陵の周囲の小山だけが、このあたりで残っている自然なので、もしあるとすれば、そこだろうという。それで、5月の連休に彼女を案内役にして東陵の周辺にハイキングに行こうかと計画した。

 

それで、教師の会の全員にメイルを出した。

 

---------- ----- ----- ----- -----

 

4月の定例会の時予告したように、弁論大会の次の週末には、朱紅飛さんの案内で「踏青」に出かけましょう。瀋陽にもやっと春が訪れました。

 

日時:52日は連休の日曜日で大混雑が予想されます。朱紅飛さんのお話では月曜日ならかなり状況は良いと言うことですので、予定を53日(月曜日に)しました。

 

目的地:バスで東陵を目指します。瀋陽近辺で自然が残っているのは東陵のうらの山しかないそうです。ここが目的地です。東陵には入りません。

 

朝鮮族も、漢族も狗肉を食べますが、満族は決して食べないと言うことをご存じですか? 

 

朱紅飛さんから伺った話ですが、明軍に攻められて傷ついたヌルハチは草原に囲まれて火を付けられました。気を失っているヌルハチを、狗が自分の身体を河でぬらしてヌルハチの周りの草を濡らして燃えるのを防いで、ヌルハチは助かったと言うことです。その犬は気がついたヌルハチの隣で死んでいるのが見つかりました。

 

それで満族は狗肉を決して食べない。この犬の塚が裏山にあるそうです。ここもハイキングの時に通るので、このような話もそのとき朱紅飛さんに伺いましょう。

 

内容:2時間近くゆっくり歩いて、ツクシ、のびるに出会うかも。

 

昼食:中街に戻って、遅い昼ご飯を回族のお店で。

 

集合場所:53日月曜日午前10時までに馬路湾168号バス停にお集まり下さい

 

付録:水のボトルと、あとはお好みのスナックなど。ハイキングの服装で。雨なら中止。

 

必須:参加される方は、430日金曜日の昼までに、山形宛にメイルを下さい。参加の人数によっては、集まる場所を変えるかも知れませんので、この期限を守り下さい。

 

---------- ----- ----- ----- -----

 

その後集合時間を9時に変えて、再度全員にメイルを送った。

 

最初にメイルを送ったのが弁論大会の前だったので、そのとき会った先生方のうち、その日は参加出来ないと言われたのが二人だった。

 

誘いを書いて、期限までに二人から、都合が付かなくて参加出来ないというメイルがあった。結局それだけだった。つまりほとんどの人たちからは無視されたのだった。

 

一寸ひどいんじゃないかなと言うのが私の率直な感じである。ただの知らせではないのだ、一緒に遊びに行きませんかと誘っているのに、二人以外からは返事がなかった。

 

誘いを無視しただけでなく、私を無視したと言うことだと思う。でも、そう認識すると傷は深くなるし、会員との関係も修復不能になる。同じことは私だってやっているんだろうなと、反省するだけにとどめておこう。

この秋大学院に入学する学生は1月に全国統一試験を受ける。中国はこういう制度である。

2月の終わりには成績が出て、学生はこれに基づいて行き先を決める。薬科大学の合格の基準に満たなくても、何処かよそに行くことも可能である。

私のところにも3月半ばに男の子が来て、先生のところの修士課程に入りたいという。いろいろと話してみて、受け入れようかと思って、そう返事した。

4月には各大学で、1月の試験に合格した志願者に面接を含む二次試験を行って、最終的に合否を決める。私たちは
外国人なのでこの合否判定に関わらない。

あとで結果を聞くことになるが、先の志願者は卒研生としてうちに在籍している学生ではないので、どうなったか不明のままである。連絡もない。

私たちの研究室の修士2年である黄澄澄さんが、この子にどうなったか電話をして聞いてみようと言った。

数日後には電話が通じて、この男の子は二次試験の結果が良くなかったので、先生のところには行けないと思って、ほかの先生に会ってそちらに行くことを決めたという。

そうか、来ないのか、と印象の薄れた男子学生の顔を思い浮かべようとした。来たくなければ来なくても良い、と思っただけである。

でも、黄澄澄さんは、でも、こちらに断りもなしに勝手に決めているなんて良くないですよ。失礼です。私はそういって叱りました。それで、この子は明日、先生のところに謝りに来ると言っています。

黄澄澄さんは、礼儀にもとると言って怒っている、これは凄いことだ。

でも、結局この学生は顔を出さなかった。そんなものだろう。顔を出したって、ばつの悪いだけだ、と思ったんだろう。失礼と言えば失礼だが、だからといってこちらに何が出来るわけでもない。

人生、なるようにしかならない。しかし、この秋学生が入らないと、その2年後には研究室を閉じることになる。

これから毎年、段々と、研究室の人が減っていくことになるのは淋しいが、仕方ないことだろう。誰でも定年になる教授が味わうことだ。

この薬科大学も2012年には遙か北の方の新しいキャンパスに移ると言うし、私も2年後の健康だって分からないし、辞め時かも知れない。

薬科大学を辞めたあとどのように生きていくかを、遅いと言えば遅いけれど、そろそろ真剣に考えることにしよう。