この世に生まれて来た人の殆どが、何者にもなれず一生を終えるのかも知れない。そんな鎌田勇作もその一人だ。彼は長年の執筆活動を通して、出版社の大会に応募し続けて来た。そして三十代前半の時、彼の作品が認められ出版に至った。そんな鎌田だが、彼もまた何者にもなれない一人なのかも知れない。
何時もの様に書斎でひとり黙々とパソコンのキーを叩く。鎌田の日常はそんの朝の一幕から始まるのだ。そう、鎌田は二十年来、こうして黙々と早朝から午前中いっぱいを掛けて執筆にあたるのだ。孤独な自分と向き合う作業の様にも思える。その姿はまるで鎌田の背格好から、押し黙った狸のようでもあった。自分の姿が僅かにパソコンのモニタに反射する。自分の容姿などに構ってはおれない。
執筆中の作品の登場人物を光らせるのに躍起になり、自分の姿は二の次であるからだろう。
「そんなことはどうでもいい。俺も小説とやらを書き続け、二十年あまり経つ、もう五十代に突入した」
そして今、作家として大きな転換期が訪れたのである。それが『書けない』ってことだ。いや、正確に言えば『書かない』ってことである。鎌田がこの道を選んだのには幾つか理由があった。
その一つとして、彼の作品に掛ける情熱が、昔ほど無くなった。つまり、若さを失った鎌田が、今までのように作品に情熱を傾けられるかと言った話だ。また、鎌田には持病を抱えている問題もある。その持病は双極性障害と言う精神障碍であり、躁状態と鬱状態を繰り返す病と言われている。そんな鎌田でも、この病のおかげで、今までの創作には役立っていたのかも知れない。
また若い作家の台頭というものもある。作品を比較することは出来ないかも知れないが、若手の作品を読むと、自分の作品がみすぼらしくなる。そんな思いにさせられるからだ。
こうして書けなくなってから二年の月日が流れ、今再び鎌田はディスクのパソコンに向かっている。何者かになれる人、なれない人の違いはなんだ?
恐らく、まず努力しない人はどの世界でも無理だろう。それと残念ながら生れながらの才能ってのはある。あと、人間性っていうのは大きいんじゃないだろうか。
鎌田は自己洞察して、これまでの自分を振り返ってみた。そして鎌田に一番足りない物が何なのか気が付いたのだ。そう、鎌田は努力が足りなかった。この二年間もの間、『書けない』のではなく、『書かなかった』のだ。どんなに拙作な作品でも、作家なら書かないと始まらない。そして彼に人間性はあるか?
幅広い作品を描くのに、登場人物の性格は鎌田の創りだす人間性から始まるからだ。でも悪い事が全てではない。『書けない』時の苦しみがあるからこそ、他の人の痛みが分かり、作家としての肥しになるんじゃないだろうか。鎌田もそのひとりであり、今また新たな原稿に取り組みつつある。彼には彼にしか書けない作品があり、彼の作品を待ち望んでいる読者がいる限り、鎌田は書き続けるんだと思う。
誰もが最初から、何者にもなれる訳ではない。こうやって今、パソコンに向かってキーを叩く僕だって、『何者にもなれない私』なんだから。



