〝江戸っ子だってねぇ?〟

〝神田の生まれよぉ〟

〝そうだってねぇ〟

 

浪曲・二代目広沢虎造『清水次郎長伝〜石松三十石船道中』の

中のこのフレーズが大好きだった。

時代は、1970年代の半ば。

父が乗っていたサニーの中の、8トラカセットで聴く浪曲は、

小学3年生頃の自分にとっては大のお気に入りで、

特に毎年夏の、父の実家である山梨まで盆帰省する、

4時間ほどのドライブでは、次郎長伝がずっと車内に響いていた。

なぜか子供のくせに助手席がお気に入りで、

「助手席は危ないから、お姉ちゃんと並んで後ろに座りなさい」という

母の忠告をいつも完全スルーしては、

助手席で、テープから流れる三味線をチャカチャン鼻歌で口ずさみ、

高音の合いの手も完コピしてから、冒頭のやりとりを再現した。

こまっしゃくれた子供の芸を、父はたいそう喜んで、

虎造による次郎長伝の8トラテープををフルセットで揃えたりしていたが、

森の石松が都鳥一家に騙し討ちにあって非業の死を遂げたくだりで、

オレが号泣して、東名の入り口あたりから3時間、

全く口をきかなくなったのを見て、次郎長伝をお蔵入りにさせた。

 

二年半前に亡くなった父は、長男(オレ)を助手席に乗せて

ドライブするのが大好きだった人で、

小〜中学生時代の父との思い出は、サニー→ローレル→セドリックと

変遷していった車の中でのものが多い。

 

 

〝米国の歌手、エルヴィス・プレスリーさんが昨日、

    自宅で死亡しているのが発見されました〟

という衝撃のニュースをラジオで聴いたのは小学5年の盆帰省の帰り途。

トイレ休憩で寄った海老名のサービスエリアだったのを、はっきりと覚えている。

その三日前の往路の車中で、カーステから流れていた

『ハートブレイクホテル』を父が嬉しそうに聴いているのを見て、

「プレスリーとか、ないわー。テープかけるね」

と、ラジオをガチャ切りして、クイーン(当時、姉が大好きだった)の

カセットを入れた(当時はローレルで、8トラではなくなっていた)のを、

父が少しむくれて見ていた、ということがあったから。

 

小学6年の運動会では、当時、学校全体の体育委員長を

押し付けられていたオレが、白組(各学年の奇数クラス)の応援団長を

やることになった。かなり本格的に応援団の真似事を

しなくてはいけなくなって、扇子振りや号令笛鳴らし、声出しまで、

結構な時間をかけて毎日練習をしていた。

その頃は、入団したことに父が大喜びしていた野球のリトルリーグを、

5年生から始めたサッカーとの両立が厳しくなって、辞めた時期だった。

サッカーの応援にも来てくれていた父だったが、リトルの代わりに

応援団という文化に出会った息子が、少し嬉しかったのだろう。

運動会前のひと月ほどは、父の車の助手席に乗ると、いきなり

『紺碧の空』やら『若き血』やら、応援の練習で使っていた曲が、

カーステから流れてきたのを思い出す。

〝こんぺーきのそぉらぁ〜〟と大声で歌いながら運転する父を横目に、

曲の調子に合わせて扇子振りの練習をしている小6の息子。

車外から親子を見た人たちは、その光景の異様さに、

慄いたり大笑いしたりしたに違いない。

 

中学2年の頃のオレはサッカーと、

週末の友人宅での夜遊びに夢中になっていた。

なので、父の車での二人ドライブも数えるほどになっていたが、

それでも年に数度は出かけた。

思い出すのは、朝日が上り始める頃の国道だ。

いま思うとちょっと異常なほど、サッカーに関するギアにこだわる

中坊だったオレは、足にピタリと馴染む天然カンガルー皮の高級スパイクや、

街で見かけることがほとんどない、

ブンデスリーガのチームのユニフォーム(練習で着るもの)が、

60〜70%オフで購入できる恵比寿のスポーツショップの

シーズナブルセールに並ぶために、父に車を出してもらっていた。

その頃は「東京の田舎」然として何もなかった恵比寿の、

町外れにあったスポーツショップは、

のちに国内屈指のスポーツ店チェーンに成長する店のオリジンで、

「え? これがこんな値段でいいの?」ってな具合のセールで

一部マニアには有名で、セール開始の日には早朝から大行列ができた。

その行列の少しでも前に並ぶためには、夜中の3時半ごろに

春日部の自宅を出て、5時半ぐらいには店に着いていなければ。

だから、その季節になると1週間ほど前から父のご機嫌取りをして、

ドライバーとスポンサーを兼務してもらわなければいけなかった。

セール当日の道中で、朝の澄んだ空気の中でゆっくりと上ってくる

太陽から車に差し込んでくる光線が、心に残っている。

光は正面からだったり横からだったり、カーステから流れる曲は

石原裕次郎だったりエア・サプライだったりしたが、

なぜか二人とも黙って、でも二人とも光を感じていたあの時間は、

父のことを思い出すとき、蘇ってくる。

 

 

父が亡くなって、半年後に実家に戻り、母と二人暮らしを始めて、

この4月で丸2年。

なぜかその月になって、YouTubeで広沢虎造の動画が

リコメンドされていたり、ふと付けたテレビで

(最近はほとんどテレビを見ないのに)

埼玉の高校生の応援団を特集していたりで、

なんとも不思議な気持ちになった。

 

 

 

親父が『お前、オレのこと忘れてねえか?』って、

ちょっとむくれているような気がしたんだよ。