素盞鳴尊の長男がイエス・キリストと分かり、その母は天佐登美と考えられます(仮)、天佐登美は大己貴命の娘と伝わるので、大己貴命(双子)も年齢としては結構な年だと思います。
それならば、二人共エジプト(白人根国)かイスラエルの生まれで、素盞鳴尊と共に帰って来たが正解だろうと思います。(実年齢としては素盞鳴尊よりも年上の可能性もあるとは思います。)
私はこれまで長野県の徐福伝承は八島士奴美の事として来ましたが、今回の情報から修正を余儀なくされたからです、二人の大己貴命は恐らくエジプト生まれで年も素盞鳴尊に近いと考えられるからです。
そして大事なポイントは「白人根命」と名前が示す通りで、白人根国に生まれたと考えられるので、エジプト生まれだと推測出来るからです。
五十猛命の母は他の文献から大己貴命の娘とだけ伝わっていました、そして素盞鳴尊は7年の間、天竺(インド)へ仏道修行へ行ったとも伝わるので、この時にエジプトへも行き、大己貴命の娘、天佐登美命との間に2児を設け、次男の五十猛命(伊斯許理度売命、いすきりどめのみこと)は素盞鳴尊と共に日本へと帰り、長男のイエスはナザレ村へ移住して宗教活動をして世界に名を残したと考えます。
だから、青森県のイエスキリストの墓は弟の「イスキリ」墓とも伝わるので、コチラが正解の可能性が高いとなりました。
伊斯許理度売命は石凝姥とも書くので女性と解釈されていますが、「どめ」には意味があるとは思いますが、「伊斯許理=イスキリ」と読むほうが自然である事と、エジプトで造ったとする伊駄国と名前が似る「伊太祁曾(いだきそ)神社」の祭神に五十猛命がある事も証拠になると思います。
もう一つ、五十猛命は八十禍津日神という名前があり、瀬織津姫にも大禍津日神という似た名前が付いています。(一般には八十禍津日神=大禍津日神と誤解されていますが、九鬼文書に瀬織津姫が大禍津日神と書いていたので判別出来ました。)
この「禍津」という表現が「イスラエルの」という意味じゃ無いのかと思います、瀬織津姫はイスラエルの女王と太陽・月王家の女王の両方を継承した女性だと分かりましたので、大禍津日神という神号が付けられたと理解できるのです。
これまでの歴史解釈を尽く覆して申し訳ないのですが、「神話の解釈」がこれまでの常識で、私は歴史解釈をしていますので、どうしても全然違う解釈とならざるを得ません。
神皇記に載る系図情報ですが、かなり正確で(間違っている部分も割とありますが、知られていない正しい情報もあるという意味で…)、龍宮の息子が「大海毘子命」と書かれていましたので、「大海」の謎も解けましたし、豊玉彦の流れが大海毘子命→豊玉男命→豊玉彦命と書かれていて、その母も玉一族である事が書かれ、これまでの考察と一致していました。(これはチョット威張っても良いのでは………)
さて、今回の本題ですが、日本の王族は二〇〇〇年前でも世界中に国を持っていたので、王族の間では人材不足に陥っていたんじゃないかと思われます。
最初こそ知識に格段の差があって人々はひれ伏していたのでしょうが、数千年も経つと反抗勢力も増えて、海外からの撤退を繰り返していたのだと思います。
だから秦氏なども、男系により秦氏と名乗りますが、母系では大月氏族でもあり、大山祇サクラウチの血筋になるんだと思います。
チグハグな感じがあるのは、中国系の氏名の秦氏がエジプトやメソポタミアの情報を携えて日本へと帰っている為だろうと思います。
という事は、古墳時代までは日本人は世界で活躍していた事を覚えていたハズなんです。(その頃に帰ってきているので…)
我が家の先祖の小野篁などは、空海などからも聞いていたので、他の人と違ってかなり古代の事も知っていたと推測しています。
ちょっと他の人より先行しすぎた感がありますが、追い付くのを待っている訳にもいかないので、このままブッちぎってキリの良い所まで明らかにしたいと思います。(壁にブチ当たらない……)
近日中に大型アップデートをした「小野氏大家系図」をホームページからダウンロード出来るようにしますので、期待してお待ち下さいね。
我ながら「お宝!」レベルの系図になっていると思いますので、古代史の研究にも使えること間違い無しです。
これまでで一番の完成度になっていますので乞う御期待!!!
龍海