昨日は雨が降っていて骨董市はお休みして、ブラブラしつつ、古代史に繋がりそうな神社を探します。(買い物ついでにですが…)


 金光町という「金光教」で有名な町の方へ向かっていると「磐岩神社」という、今、私の中でホットな「磐(岩・石)」に因む名前の神社があり向かいました。


 二千年前ならこんな感じ

 この地点でも海面から16.5mほどあるはずで、更に高台にある事から、超古代からあった可能性が高い事が分かります。

 狛犬は新しいながらも角ありですね。

 角なし。

 この石段、スキマがあってスキマから穴が大きく空いているのが見えました。
 気を付けて行きましょう。

 祭神を見ると、経津主となっています、コレは少し重要な意味を持つと考えますが、人まずは置いといて。

 帰ってからしらべると、
「口碑によると、一千数百年前に屯倉の設けがあって、曲浦にそう枢要の地であったが、また海匪も頻々と出没した。巨巌が数十百個嶷立するこの要害の地に、下総の国から武神を勧請し、巨巌を鎮護神としたという。戦国時代に神社の後方の山嶺に、宍戸安芸守が拠り、御鏡一台を寄進した。現在末社に安芸神社があるのは、城主安芸守に関係があるといわれる。」

 地名にも「小三宅大三宅」と屯倉(みやけ)に由来する名前があり、山の名前も「安芸守山」と口碑との一致が見られます。

 地名に曲浦、「海匪(中国語?)=海賊」、平安時代頃までは海だった可能性は高いとは思いますが、屯倉(みやけ)が作られたのは大化の改新(645年)よりも前なので、相当古い話を伝えている事が分かります。(海賊は奈良時代)

『全国巨石磐座探訪記』によると、
「金光町史によると、土地の人はいわいわさまと呼んでいて、巨岩の麓の祠は毘沙門様といわれ、正月には、早く参った人が、祠を自分の地区の方へ向きを変えると、福がくるという。 」
とあり、毘沙門天に関係している事が間接的に分かります。


 本殿の背後には磐座群があります。

 登れる様になっていましたが、小雨の中だったので、軽く上がってパシャリ📸

 磐座群と言えば修験道、修験道といえば龍王、二代目か三代目のシャカラ龍王が「毘沙門天」だと伝承から判断されますので、ココにも毘沙門天の行宮があったと推測できます。

 もう一つは、経津主は「綿津見」を構成していたうちの一人と考えられますので、千葉から勧請したのではなく、ココに経津主がいた事が推測出来るのです。(若い頃かな?)

 私もそうですが、岡山県の人間は「経津主」など誰も知りません、古代はそうでもないかも知れませんが、吉備津彦(3世紀頃)が来て以降なら、100%吉備津彦を祀っているでしょう!

 そうでないのなら、吉備津彦より前からあるとしか考えられず、経津主が居たから「祭神が経津主」なんだと考えられます。

 ココが行宮なら経津主とは毘沙門天の末裔と考えられ、証拠としては弱いながらも、一応の繋がりを示すものではあると思います。

 超古代に始まる神社のみをピックアップし、祭神を調べると、親子関係が分かるかも知れないという気付きを得ました!

 作業をするかどうかは分かりませんが(笑)、必要になればするかも知れませんね。

 龍海