磐座群石洞神社を見て大満足でしたが、ついでに他を見て回らねば勿体ない、最初は「シカマ」とは”大きな岩棚”なのか””なのか? シカマ山を見に行ってきました。

 山頂まで行きましたが、ものの見事に何も無いところでした。(銅像がありましたけど(笑))

 動画の通りで「大きな岩盤」などは無かったので、シカマとは「」の意味である事はほぼ確実でしょう、渡り鳥のがこの山の上を飛ぶ事から付いた名なのか、山の姿がある角度から見るとに見えるのか?(それとも加茂が関係か?) ともかく、「岩盤」では無さそうです。

 

 次は近くにある「磐長姫神社」に行ってみました、理由は密かに「磐長姫」が古代史を謎を解くキーワードの一つじゃないかと思い始めていたからで、東京都知事選で石丸さんが活躍しましたし、「」も「」も実は古い「」だと見えてきていますので、磐長姫に情報が残されている事を期待してのものです。

 

 磐長姫というのは「三代目の大山祇マウラ」の娘になりますが、母親の名前は分かりません。

 ニニギへ嫁ぐ話では木花咲耶姫磐長姫の二人を嫁がせようとして、磐長姫ブサイクなので断った事になっていますが、本当のストーリーとしては、本来の皇太子であった櫛玉火明命に子供が出来なかった為、ニニギに転がり込んできた幸運が原因だと思っています。

 

 母親はタクハタチチ姫ですが、高千穂王朝の血筋なんでしょう、櫛玉火明命は扱われ方から見て、幼少期から出雲王朝が育ててきた様子がありますが、ニニギ高千穂王朝が育てていたのでしょう。

 

 高千穂王朝は徐市系であることを突き止めていますので、出雲王朝の娘を貰いたくなかったのですが、圧力に屈し木花咲耶姫を娶り、その子が跡継ぎとされたのでしょう、高千穂王朝からみれば「千載一遇のチャンス」だったと思うのです、しかし出雲王朝に屈した形になったというのが私の考えになります。

 

 そして次の代では出雲王朝を主として支える二派が分裂し、綿津見の主力である「豊・玉龍王」(三種神器=神武天皇が所有)と「十大龍王」(十種神宝=饒速日命が所有)が分裂し大和(ヤマト)を取り合ったのが「神武東征」であった訳です。

 

 おっっっっと、脱線してしまいましたが、磐長姫神社の紹介をしなければ!

 大山祇マウラ神奈川県を拠点にしていたと考えますが、「磐長姫神社」を検索すると、西日本に集中しています、このうち3つが岡山県にあり、兵庫県にも一つありますが、ココも龍王のいた所なので、龍王のいた所に「行き宮」を持っていたと推測出来るのです。

 

 うち二つは倉敷市児島にあるので、私は「なんでっ?」と思うのも、実は正しい気づきなんです。

 

 今回行ったのは、

 龍宮に近い所に岩長比咩神社木花咲耶姫神社磐長姫神社がある事が分かります、私は岩長比咩神社木花咲耶姫神社の間にある二つの古墳は二人の墓である可能性があると思っています。(この二人の墓が岡山県にあるという事自体がビックリする様な仮説になります。)

 

 で行って見たら、

 道路沿いにあるため、私も遠目では見ていましたが、降りて見たのは今回が初めてでした、正直、何も期待していなかったので、実はビックリしました。

 大きな磐座をご神体にして古い信仰を元にした事は分かりますが、他にはこれといったものはありません。

 奥宮をパシャリと撮った時に違和感があり、目が悪いのでよじ登って見ると、

 おおっ!金比羅神社龍王社に次いで二つ目の「神殿様式」の社だったのです、( ゚Д゚)/

 

 新しく作り直したものには違いありませんが、前の様式を真似て作った事は間違いないでしょう!、なぜなら他では全く見ない様式だからです。

 

 ここから導かれる仮説は恐ろしいものになります、ユダヤ系月王家の血筋が合流してシャカラ龍王になっているというものです。

 

 もしかすると「月王家」とはユダヤ系だった可能性があるのです、なぜならアフリカの北にある国々はをシンボルにしているので、ネパール月王家の本拠地があったと考える方が無理な話なので、古代イスラエルへと進出したユダヤ系月王家だったと考える方が適当になるからです。

 

 その後、月王家シャカ族と合流して月王家とシャカ族とが習合し「オオゲツヒメシャカラ龍王」へと昇華した為、海外組の日本人の中では別格の存在になっていたと私は推測しています。(ブログで扱うレベルの話じゃないんですけどね~、ドキュメンタリー番組で扱うレベルだと思います。(笑))

 

 という訳で、「磐長姫神社」では神殿様式の祠に遭遇し、シャカラ龍王そのものがユダヤ系である可能性を確認してしまいました、次は古代の「王島」に行きます!

 という訳で、次は「王島」です、ここは今は「水島工業地帯」のど真ん中になるので、地元の人でも存在を知らない場所になります。

 先に言うと、行って見ましたが、手がかりは特にありませんでした、なので、山腹にあるお墓へ行く階段をパシャリ!

 しかし工業地帯を入っていくと、古い住宅街があるというのは変な雰囲気でしたね。
 
 ここで満足度はかなり上がっていましたので、龍宮神社の事を忘れて帰り掛けていたのですが、ハッと思いだし、Uターンして手がかりのありそうな、「中畝神社」へと向かいます。

 中畝神社では「竜宮神社」らしきものを見つけ、素戔嗚神社では神社の由来を知る事が出来ました。

↑ 中畝神社

↑ たぶん竜宮神社

↑ 祠の中に龍がいたので...

 

 竜宮神社らしきものはありましたが、全く歴史としては分かりません、しかし龍宮山にあったものとしては「しょっぱい」ものでしたので、私の中では「違うな」と思いつつ、もう一つの「素戔嗚神社」についでに寄ってみました。

↑ 素戔嗚神社の拝殿

↑ 拝殿の左奥にあった「元宮」

 横にあった元宮の説明から「王島」から移された事が分かりました、恐らくは「竜宮神社」も王島にあったものでしょう、

 かつては各島々に「龍宮」の行き宮があって、そこが「龍宮神社」としてあったのだと思います、その内の一つ、王島にあった龍宮神社が陸続きとなった際に、中畝神社に移されたものだと思います。

 

 龍宮を祀った神社とは「石洞神社」だと思いますので、残されている情報とも整合性がとれますので、私の解釈としてはそうしたいと思います。

 

 なんてことは無い、普通の神社に「古代史の謎を解く」情報が残っています、神社単独では何も分かりませんが、核となるストーリーが分かると、こんなにも芋づる式に分かって行く事ができます。

 

 歴史が好きでは無かった私でも、面白いと思うほどです....

 

 次は浦島太郎の物語を攻めないと...(少し休憩)

 

 龍海