いやぁ~、寄り道をいっぱいしたので忘れている方も多いでしょう(私を含めて)、前回までのおさらいをすると、布都御魂剣が登場し、八咫烏と賀茂建角身命との関係や修験道との関係に言及しました。(八咫烏とは、忍者のような存在では無かったのかと...)
最後は神武の行宮の「日高宮」が日高町にあった事について言及した所までで終わっていますので続きをいきたいと思います。
「勅して海陸の將校を選み、且つ其部署を定め給ふ。」
「即ち皇太子、親ら大久米命・手研耳命・中臣道之臣命以下二十二將を率ゐ(い)て、宇陀の國見に向ひて、賊魁長髄彦を征しまさむとし、高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命をして、中臣道足命以下十九將を率ゐて、牟婁の鬼山に向ひて、白木(一、作 新羅。) の賊徒を征せしめむとし給ひき。」
龍海:やはり熊野へ入る前の話のようです、宇陀の国見へ向かう途中で牟婁の鬼山に向かっていますので、前にあった鬼山での海戦の情報とリンクします。
↑ 黄色が牟婁郡
龍海:かつての「牟婁郡」は和歌山県と三重県にまたがる領域で、一国ほどの大きさがあったようです、この中でどこが鬼山なのか?
龍海:旗の所が「八鬼山」と今でも山名に名残りがあります。
龍海:少し南に神武聖跡もありますし、九鬼水軍の本拠地でもあったようです、恐らく「鬼山」とはこの辺りを指す言葉としてよいと思います。
「發するに臨み、稲飯・三毛野の兩皇兄に詔りたまはく、諸兄等、奮戦激闘して此白本(ママ)(木)の賊徒を塵にすべし、若し誤りて遁走せしめなは、天地神明共に容ささる所の罪なるべし、と嚴に宣り給ふ。」
「乃ち發す。」
「皇大子は、大久米命等と共に、皇軍を率ゐて進みます。」
龍海:ここで稲飯・三毛入野とは分かれたようです、配置を見ると船でこぎ着けて、陸と海に分かれた事が理解できますね。
「軍容蕭然、兵威大に振ふ。八咫烏、之か郷導たり。」
「名草・日野・岩川の農神等、馬數百頭を獻し、軍に從はんことを請ふ。」
龍海:「馬を数百頭」は多いような気がします、盛ってるんですかね? 名草・日野・岩川の農神が出ますが、和歌山市の方なので、このタイミングで味方する事にしたのなら、神武が勝ちそうな情報を得たからだと考えられます。
龍海:八咫烏や剣を得た事が原因だと思いますが、ここでも皇太子なのに外部からの支持が政局を左右している事が見て取れます。
「八十坂に至る。」
「兵勢日に加はり、威力益々熾(おこす)なり。」
「贄持(にえのもつ)頭の子加奈宇伊呂は、吉野川に網代を作り、川魚を捕りて之を獻す。」
龍海:記紀では「贄持之子(にへもつのこ)」として登場します、鵜飼の祖とされている人物で鮎を捕って献上しています、神皇記では「加奈宇伊呂」と具体的な名を伝えています。
「皇太子詔りたまはく、汝小國司・郷司・村主等の狀況を知れりや、對白したまはく、能く之を知れりと。」
「乃ち、之を郷導となしぬ。」
龍海:加奈宇伊呂が国司や郷司、村主に詳しいからと、道案内がここから加奈宇伊呂に代わっています、これは記紀には無い描写のようです。
to be continue ....
龍海