倉敷市にある「日間(ひるま)」という所は小野小町の古文書で、小野小町が城郭を開いたとする所であります、当時の様子はというと、

 

 この様に完全な海の中の島であったと思います。

 

 わたしはこの島を長らく「羽島」だと思っていたのですが、『備中国名勝図絵』の中で次の様に紹介されていました、

「日間嶋

 窪屋郡羽島村。ヒマシマをつづめて、今はシマといへるか。又ここに日間山といふ山有。今ヒルマと唱ふれども、是羽島なるべきしるしなり。此所、今は陸につづきたれども、古は嶋なりし所なり。

 大嘗会和歌集に云。

 後三条院治暦四年十一月廿一日主基備中国日間嶋有漁船

 ひましまに釣するあまやお(ほ)こるらん 沖のなみもたたぬ世なれば

 第四の句、文字脱たるなるべし。今はもとのままにす。」とあります。

 

 後三条院という人は1034~1073年の人ですから、「沖のなみとたたぬ世なれば」というのは、藤原純友の乱で壮絶な海戦の後を受けた内容と思われ、「本来ならば海上警備をしている兵船が平和な世の中になって、その兵たちやその船が漁船となっていますよ」という意味になると思います。

 

 小野小町の古文書や太平記に記されている「小野浄智」の話から、小町小野家は「備中目代」という役目を負い、同地にいたと思われます。(領地は美作と黒田だと思いますが)

 

 ここに出てくる漁船は小町小野家の兵船や兵員であり倉子城(後の小野城)から出船したものであり、海賊もいなくなって、警備をする必要がないので、魚を獲っている様子がありありと感じられます。

 

 この様な情報も解釈を正しく行えば、真実を表しているものだと感心しきりです。

 

 図には倉子城のあった小島を書き足しています、往古は「倉子島」と呼んでいたのではないかと推測をしています。

 

 龍海