私のふるさと
本年中にもう一つ。
せっかく月刊不動産流通という雑誌に初エッセーを掲載して頂いたのでこちらへもその記事を。
ちょいと長いですが、初心を忘れないように。
「私のふるさと」
落語家で8年間前座修業をしていた、と言うとよく聞かれる。
「内弟子ですか?」
残念ながらというか幸いながらというか、私は内弟子ではなく通い弟子だった。
昔は師匠の家に住み込みで前座修業をする内弟子が一般的だったようだが、今ではあまり聞かない。
プライバシーが尊重される現代においては師弟といえどもあまりそぐわないシステムなのかもしれない。
内弟子ではなかったが、朝、事務所の駐車場から車を運転して師匠を迎えに行き、
一日の付き人業務を終えて駐車場に車を戻す頃にはいつも終電時間を優に越えていたので、
事務所から徒歩圏内に部屋を借りなければならなかった。
とはいえ事務所は恵比寿、まともな部屋を借りようとすると家賃は10万円近くはする。
そこで駅前の不動産屋さんでとにかく夜露さえしのげれば何でもいいので3万円台の物件を探して下さいと頼んだところ、
「今時珍しいですね」と言いながら、風呂無し、トイレ共同の格安物件を探してくれた。
そこが私が前座時代の大半を過ごした「石岡荘」というアパートだった。
2階建ての1階に大家さん一家が住んでおり、2階にある6部屋ほどのうち4部屋に私同様訳あって
恵比寿近辺に住まなくてはならなかった貧しい人々(失礼か!)が住んでいた。
大家さん一家は持ち主であるおばあさんと、その息子さんとお嫁さんの3人。
ま、何せおばあさんが90代半ばだったので、お嫁さんといっても70代、かなり年季の入ったお嫁さんではあった。
でもそのお嫁さんが親切にいろいろと面倒を見てくれた。
夏は外よりも暑く、冬は外よりも寒いという、かなり精神を鍛錬するのには適した部屋だった。
窓を閉めてもどこか別のところから風が吹き込んでくるので、風通しは良かった。
部屋にはコンセントがただ一つ。
たこ足にたこ足を重ねて一度延長コードから火を噴いたこともあった。
一瞬で消えたので良かったが、寝ていたらと思うとぞっとした。
夜は天井裏で何かが駆けっこをする音が聞こえてきた。
それも一匹ではなく、わりと大勢。
恐ろしいので一度も開けて見なかったが、彼らの排泄物は一体どうなっているのだろうと思うとまたぞっとした。
壁は限りなく薄く、隣の住人の電話の声が目をつぶればまるですぐ横にいるかのようにはっきりと聞こえてきた。
私も部屋の中で稽古をする時にはうつ伏せで頭の上に布団をかぶり、声を潜めてやるようにした。
だから若いくせに芸が地味で単調だとよく怒られた。
そんな日々だったが、毎月家賃を払いに一階へ行った時、玄関先に座ってお嫁さんと話すのがとても楽しみだった。
「私もこんな歳になってまだ嫁なんて呼ばれながら頑張ってるんだから、あんたも修業頑張るんだよ。
いつかテレビに出るの楽しみにしてるんだから。」
そんなことを言いながら煎餅をくれたりして励ましてくれた。
前座修業も最後に差し掛かった頃、風呂のある部屋に引っ越すことになった。
お礼を言いに一階の部屋へ行くと「またいつでもおいで。元気でね!」
とだけ言って奥へ行ってしまった。
少しだけ、目が潤んで見えた。
前座修業が終わり、二つ目に昇進して真っ先に記念の手拭いを持って石岡荘へ行った。
目を疑った。
半年ほど前まで石岡荘があった場所がコイン式駐車場に変わっていた。
慌てて世話してくれた不動産屋さんへ行って事情を聞いてみた。
老人ホームに入ったらしいということは聞いているが、連絡先も何も知らないと言う。
親類筋と連絡がつくかもしれないので、何か情報が入ればあなたにも連絡する、と。
それ以来、何度かその不動産屋さんへ足を運んでいるが、未だに何の情報もない。
でもまだ諦めてはいない。
おばあちゃんも旦那さんもそうだが、誰よりもお嫁さんに元気でいて欲しい。
そしていつか会えたら「石岡荘は僕のふるさとです。」とマジックで書いた手拭いを渡したい。
落語家、立川志の春にとって、本当にそうだから。