3月東京のトリスタン祭りの第二弾。といっても、20日に観たのと同じ新国立劇場の別日程であるが、日本で上演される機会が必ずしも多いとはいえない「トリスタンとイゾルデ」なので、週末の行ける時に行っておこうと、もう一度足を運んでみた。
3月23日(土)新国立劇場
ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
トリスタン ゾルターン・ニャリ
マルケ王 ヴィルヘルム・シュヴィングハマー
イゾルデ リエネ・キンチャ
クルヴェナール エギルス・シリンス
メロート 秋谷直之
ブランゲーネ 藤村実穂子
牧童 青地英幸
舵取り 駒田敏章
若い船乗りの声 村上公太
新国立劇場合唱団(指揮:三浦洋史)
大野和士/東京都交響楽団
配役に変更はなし。2回目となると少しゆとりをもって鑑賞できるところがある。全部で6回上演される中の3回目と4回目を観たことになるが、印象としては、やはり回数を重ねた方が演奏はこなれてくる。特にオーケストラは、回を追うごとにより確信に満ち、指揮者の意思が透徹されて来ているようで、熟成が進んでいるようだ。また、海外勢の歌手も慣れるに従ってより本領を発揮していたように思われる。
まず前回と印象が少し変わったのはイゾルデを歌っていたキンチャである。より声が出るようになっていて、やや粗削りなところは変わらないが、声がすっと出るようになったせいか、表現のコントロールがより利くようになっていたようであった。特に第1幕のトリスタンの命を救った時の思い出を怒り狂いながら歌うモノローグなど、なかなかの迫力で、猛女イゾルデの面目躍如たるところがあった。意外にブランゲーネにも厳しく当たっているのが(現代なら典型的なパワハラ主人である)、迫力を増してより生々しい。それを受けて、おどおどと振舞うブランゲーネ役の藤村実穂子の演技もより映える。
トリスタン役のニャリもより声がすっと出るようになり、ゆとりが出てその分表情付けが濃くなった部分もあったようには感じられたが、イゾルデ役のキンチャの方が声がわっと出るようになってきていたので、二重唱となると、全てイゾルデの声量がかなり上回ってしまい、バランスはかえって悪くなってしまっていた。ニャリがもう少し頑張るか、キンチャがバランスを取ればいいのにとも思うが、なかなか同程度の力のある歌手を組み合わせないと、トリスタンとイゾルデの愛の二重唱は上手くいかないのだなと再認識した。
前回と同様に快調だったのはブランゲーネ役の藤村実穂子であるが、安定感抜群で手堅く水準の高い歌唱を聴かせてくれた。また、マルケ王を歌ったシュヴィングハマーも安定感の高い歌唱であったが、1回目に聴いた時の方が、より歌が朗々と響き渡っていたようにも感じられたが、逆に期待し過ぎてしまっていたのかもしれない。いずれにしても、歌も演技も素晴らしく、マルケ王は当面はこの人に任せればいいのではないだろうか。
もう一人この日快調だったのは、クルヴェナール役のシリンズで、第3幕前半のトリスタンとのやり取りで、完全にトリスタンの歌唱を食ってしまっていた。声質も魅力的であるし、歌い方に風格が出て来ているように感じられた。また、メロート役の秋谷直之もなかなか堂々たる歌唱で気を吐いていた。なかなか良い歌手だなと感じられた。
とはいえ、この日も隠れた主役はオーケストラである。改めて聴くと、大野指揮する都響は本当にレベルが高い。細部まできちんと作り込んでいる。他方、コンサート・オーケストラをピットに入れたことから、都響の演奏が徹底的に折り目正しく、整然としているところが凄かった。正味約4時間のスコアを、こんな精度でよく演奏したというところはあるが、大野が的確に指示を出して歌手との音量のバランスなどは取っていたが、実はオーケストラがかなり独立心旺盛に音楽を淡々と進めていたことに気が付いた。その安定感が凄いので、歌手はそれに乗っかればいいのであるが、考えようによっては、交響組曲「トリスタンとイゾルデ」に歌が乗っているような感じかもしれない。少々神経質で折り目正しいオーケストラが、その精緻さで圧倒しつつも、ともすると、きちっとしようとするあまり小さくまとまってしまうところもあったかもしれない。大野は徹底的にインテンポで進めていくし、正確無比ながら、清潔感のある都響の音色は、必ずしも色香は漂わせないので、あまり艶やかさは出ない。中では弦楽器、特にヴァイオリンが自主的に歌っていたが、割と縦の線がきちんと合っている印象の強い管弦楽部分となっていた。大野も、音楽のうねりは作ろうとするものの、クライバーのような煽り立てるような指揮はしないし、バーンシュタインのように耽美的にじっくりと歌い込むこともないので、中庸の美徳といった感じになる。演目によってはいいのだが、今回は何せメロドラマ「トリスタンとイゾルデ」である。もう少し音色や表現に艶っぽい色彩感が欲しくなる。この辺は都響を起用したことによる功罪はあるのだろう。弾き慣れているだろう、「前奏曲」と「愛の死」の部分はオーケストラが雄弁になっていたのは面白かった。特に「愛の死」は、大野が、キンチャの声が良く出ていたことに安心してか、やや手綱を緩めてオーケストラに感興に任せて弾かせていたと思わされる部分があり、そのためかなり音楽的には盛り上がっていた。ここは指揮者の作戦勝ちかもしれない。
オペラの公演の場合、回を重ねると、アンサンブルが練り上げられていく反面、中だるみをすることもあり、どこで聴くのがいいのかは意外に難しい。初日はまだ調整が終わっていない可能性もあることから、2~3回目のアンサンブルが安定した頃が狙い目であるとか、やはり中だるみをしても最後は頑張るので千秋楽いいのだとか、いろいろな意見がある。結局、何度も足を運ぶのでなければ、一期一会であると割り切るしかないだろう。本当に好きな演目については、2回足を運びたいと思っているが、それは1回目で演出や歌手に馴染んでおいて、2回目には余裕をもって鑑賞できるためであるが、やはり当たり外れがあるが2回行くとどちらかは当たることが多いからである(両方外れることもある。)。今回は明らかに2回目の方が上演のレベルは高かったように思われた。6回中、4回目の方が3回目より良かったとすると、中だるみもしていないのだろう。
終演後にあるバックステージ・ツアーというのに応募してみたが抽選で外れてしまった。60名の枠に対し、140名程度が申し込んでいたらしいので2倍以上の倍率で落ちてしまったようであったがどんなツアーなのだろうか。ところで、ワーグナーの場合、休憩時間が長い。幕間が2回とも45分ある。バイロイトなどは1時間あって、劇場のレストランを予約しておくと、食事を食べられるらしいが、45分は微妙である。サンドイッチくらいなら十分に食べられるが、近くまで食べに行こうと思うと少し不安な時間だ。他方、長くされても食事に行くのでなければ時間を持て余しそうである。何人かで行っていれば歓談したり、バーで飲み物を飲んだりとすればいいのであろう。新国立劇場の場合は、オペラシティにお店もいろいろと入っているので、外に出て買い物をしたり、コーヒーを飲んだりもできるだろう。今回はふと思い付いて、劇場内のバーではなく外に出て、オペラシティに入っているパブに行ってギネス・ビールを飲んでみた。そう、「トリスタンとイゾルデ」はブリタニアの話である。イギリスのパブで、プログラムを読みながらイギリスのビール(ギネスはスコットランドだが)というのもいいのではないだろうか。
帰宅したらピアニストのポリーニの訃報がニュースで報じられていた。ポリーニは一部の録音を偏愛しているものの、必ずしも一般的に好きなピアニストというわけではないし、82歳という年齢、最近は体調不良でキャンセルも多いという話もあったので、驚くような話ではないが、何か一つの時代の節目を迎えたような気持になる。ポリーニについては、バルトークのピアノ協奏曲1番と2番の録音や、ストラヴィンスキーのペトルーシュカからの3楽章などを随分と愛聴してきた。他方、古典派やロマン派の演奏については、それほど良いとは思えなかった(ただし、ベームと録音したモーツァルトのピアノ協奏曲19番と23番は意外な名演だし、有名なショパンの練習曲集は何だかよく分からないが凄いと思う。)。しかし、それ以上に、ポリーニは20世紀後半を象徴するピアニストではないかと感じていた。機械文明を象徴するかのような極端に正確無比な技巧、感情移入を排して速めのテンポでバリバリと弾く芸風、現代音楽に対する傾倒などは、まさに戦後を象徴していたように感じられた。戦後のインテリらしく左翼だったというし、理性と技術による人類の進歩を信じられた時代の人らしく、壮絶なまでの技術を駆使して、ベートーヴェンなどを弾く一方で、シェーンベルクから、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンなどを嬉々として演奏する。そう、冷戦という暗い影も感じつつ、戦後復興、高度経済成長、電化製品の普及など、社会が良くなると信じられた時代の価値観をまさに象徴していた。北欧を代表とするような福祉国家型の社会民主主義が、自由主義陣営と社会主義陣営の中間にある、理想像にも見えた。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と名付けたように、最後に残った自由主義と社会主義の争いはあったにせよ、西側の東側への勝利によって、最後は国連という枠組みの下で平和になるはずであった。そんな素直に人類の理性を信じられた時代、その価値観をポリーニは体現していたように感じられる。要するにポリーニは、(本人の思想信条は知らないが)進歩主義的であり、モダニスト的なのだ。
しかし、冷戦の終結は、世界を決して平和にはしなかったし、国連は相変わらず機能不全を起こしている。むしろ、ウクライナやイスラエルの現状を見ると、国際法上は違法とされたはずの戦争が、平然と行われ、それを阻止する手段がない。未だに全体主義的、独裁主義的な体制の国家も多い。自由主義の象徴のはずのアメリカですら、独裁的な要素をもった大統領を一度は歓迎し、もしかしたらもう一度歓迎するかもしれないし、反対派との間で社会的な亀裂を生んでいる。そんな流動化し、先が見えなくなってしまった現在の世界を考えると、ポリーニが体現していた20世紀後半の、課題はありつつも、未来に希望を見出せた時代、ポリーニの訃報には、そんな失われた時代へのノスタルジーを感じてしまう。久しぶりにバルトークのピアノ協奏曲をかけて追悼してみたが、よく考えるとリストのピアノ・ソナタの余白に入っているリストの後期のピアノ作品をかければよかった。ご冥福をお祈りする。